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西国三十三所巡礼の最近のブログ記事



西国三十三霊場 御朱印・本尊御影・梵字本尊

 2012年元旦の本日、初詣と西国三十三所巡礼で兵庫県宝塚市の中山寺にお参りしてきた。

 中山寺は、聖徳太子の創建で日本最初の観音霊場。安産の神様としても有名。我家から近いこともあり、長女誕生時に腹帯をいただいたり、次女の七五三詣りなどなどお世話になり、馴染み深い寺院のひとつである。

 西国三十三所巡礼は、昨年12月11日に美濃の谷汲山華厳寺参詣で満願となり、早々に先達申請を行っていた。先任先達様のブログなどによると、申請から約1ヶ月ほどで、先達授与品(頭陀袋・輪袈裟・軸装納経帳・名札)が送られてくるとの事だったので、年内は無理とあきらめていたのだが、歳の瀬も押しせまった大晦日に受け取ることができた。

 ということで、新年初日の本日、二巡目を開始することが出来た。元旦から始められるって、何となく気分が良いものである。

 中山寺は多くの初詣客で賑わっている。本堂手前の石段下から列が出来ており、警備員の誘導に従い本堂のお参りをすませ納経所へ。納経所は本堂とうって変わって閑散としている。軸装納経帳と二巡目からいただくことにした、印取白衣に御宝印をいただく。そして先達と先達同行者にだけ頂ける御詠歌符を受け取る。

 軸装納経帳は、五巡分の御宝印を授かることができる仕様になっているので大事に扱わないといけないのだが、非常に扱いにくい。普通の朱印帳形式にしていただければ、扱いも楽だと思うのだが・・・。この軸装納経帳で二巡満願(初回をあわせると三巡)すると中先達に昇格申請できる。五巡満願(初回をあわせると六巡)で大先達に昇格申請が可能である。先達の位には、まだまだ上があり、最高位の特任大先達を拝命するには、初回の巡礼から合わせて35回の西国巡礼を満願しなければならないのだ。当然小生には金・暇の両面からみても無理なお話である。せめて中先達くらいには昇格したいものである。

 何はともあれ、二巡目をスタート。二巡目満願はいつになるかわからないが、一月に一度は西国参りの日を設けたいと思っている。
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西国三十三所公認先達授与品(外箱)
西国三十三所公認先達授与品
西国三十三所公認先達授与品
西国三十三所公認先達拝命文
クリックで写真拡大

西国三十三霊場 御朱印・本尊御影・梵字本尊

 先日の谷汲山華厳寺で、西国三十三所巡礼の満願を果たし、西国三十三所先達委員会公認先達の申請をしいた。歳の瀬も押し迫った大晦日の今日、先達会より授与品が送られて来た。

 これで、小生も西国三十三所公認先達の仲間入り。先達の名に恥じないよう、今後も精進していきたいと思う。ちなみに授与品は、輪袈裟・頭陀袋・軸装納経帳・名札。

 新年から二巡目開始だ。

◆同封書面の内容
拝啓 貴家益々御盛栄のことと御喜び申し上げます。
西国巡礼につきましてもご高配賜り御礼申し上げます。
西国三十三所御先達様御就任おめでとう御座います。
御袈裟、頭陀袋、軸装納経帳、名札を御送付させて頂きます。
先達様と共に御参拝された方へのみ、授与させていただきます御詠歌護符につきましては御袈裟や名札にて先達様の確認をさせて頂きますので、巡拝時には御袈裟を御守持され、頭陀袋等を御奉持下さい。 納経は御袈裟、名札を着用のうえ先達様御本人が御宝印を御受け下さい。
中先達様、大先達様への申請には本日御送付させて頂きました軸装納経帳でのみ巡拝回数を確認させて頂きますので御参拝の都度、軸装納経帳に御宝印を御受け下さい。
尚、代参は御遠慮頂きますよう、ご案内申し上げます。
今後とも益々観音信仰を鼓吹頂きますようお願い申し上げます。
合唱

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参拝日:2011年12月11日(日)
第三十三番札所 谷汲山 華厳寺
御 詠 歌
世を照らす 仏のしるし ありければ まだともしびも 消えぬなりけり(現在)
万世の 願いをここに 納めおく 水は苔より 出る谷汲(過去)
今までは 親と頼みし 笈摺を 脱ぎ納むる 美濃の谷汲(未来)
御本尊
十一面観世音菩薩
宗 派
天台宗
開 基
豊然上人・大口大領
開創年
延暦17(798)年
所在地
岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲徳積23 0585-55-2033
拝観料
無料
 URL









 先週の日曜日、善峯寺にお参りし、西国三十三観音霊場の札所三十二ヶ寺と番外札所三ヶ寺を巡り、残すところ一ヶ寺となった。最後の霊場は、西国三十三所満願霊場の谷汲山華厳寺である。華厳寺は、西国霊場の中で唯一近畿圏外である岐阜県揖斐川町に位置する天台宗の名刹である。この華厳時に西国三十三所結願のお参りに行ってきた。

 満願と結願と二通りの言葉があるが、先日の青岸渡寺バスツアー同行の先達さんの話によると、三十三番札所の華厳寺で満願した場合は 結願、それ以外の霊場は満願と言うそうな。とはいうものの華厳寺には「西国三十三所満願霊場」の碑が立っている。まあ、そのあたりは気にしないようにしよう。

 いざお参りに行くとなるとやっぱり遠い。当初は青春18きっぷを利用しようと考えていたが、大垣からの私鉄・バス運賃と運行便数、我地元三田からの所要時間を考えるとやや割高にはなるが、車で行くほうが、はるかに時間短縮もでき楽なので車でお参りしてきた。

 早朝に出発し仁王門横の駐車場着が8:30。早速仁王門をくぐり境内へ入る。朝早い関係もあり参拝客はまばらだ。ゆっくりとお参りを済ませ、内陣入り口にある納経所で御朱印をいただく。花山法皇が三首のご詠歌を奉納したことにちなみ、ここ華厳寺の御朱印は本堂・満願堂・笈摺堂(おいづるどう)の三種。それぞれ、現在・過去・未来を表すそうだ。

 三種の御朱印を頂き、番外の花山院からはじまった西国巡礼は二年半の月日を要し満願・結願となった。せっかくなので満願之証をいただく。

 本堂の左奥にある笈摺堂・満願堂にお参り。時間があるので満願堂の右手から奥之院に登れるようなので行ってみることに。奥之院への参道沿いに西国三十三所霊場の小さなお堂が一番青岸渡寺から順に建てられており、中には観音石像が祀られている。25分ほどで奥之院に到着。お参り後。登ってきた道を下る。

 これで一通りのお参りをすませたので、本堂に戻り、柱に取り付けられている青銅製の「精進落としの鯉」に触れ、西国一巡目を終えた。新年からは、先達として二巡目をはじめたいと思っている。

南無大慈悲観世音菩薩




西国三十三霊場 御朱印・本尊御影・梵字本尊

◆札所データ
 谷汲山華厳寺の創建は、今から約千二百年前の延暦十七年(798年)で開祖は豊然上人、本願は大口大領です。

 奥州白川郷の大口大領はつねづねより十一面観音の尊像を建立したいと強く願っており、京の都から観音像を故郷へ持ち帰る最中、突然尊像が重く動かなくなり、この地こそが結縁の地であろうと山中に柴の庵を結び、三衣一鉢、誠に持戒堅固な豊上人という聖(ひじり)と力を合わせて山谷を開き、堂宇を建てて尊像を安置し奉りました。すると堂近くの岩穴より油が滾々と湧き出し、いっこうに尽きることが無かったので、それより後は燈明に困ることが無かったといいます。

 この話を聞こし召された当時の天皇、醍醐天皇(885-930)は谷から湧き出る油を燈明に用いたのにちなんで「谷汲山」の山号、そして「華厳寺」の扁額を下賜せられました。この寺号は御尊像に華厳経が書写されている事にちなむとされています。

 天慶七年(944年)には、朱雀天皇(923-952)より鎮護国家の道場として勅願寺に定められ、仏具・福田として一万五千石を拝領賜りました。

 また西国巡礼中興の祖とされる花山法皇(968-1008)は西国三十三所の霊場を御徒歩で御巡幸あらせられ、当山を第三十三番札所の満願所と定められ、御禅衣(笈摺)、御杖、及び三首の御詠歌を奉納せられました。

 およそ百八十余年を経て後白河法皇(1127-1192)は、先帝花山法皇の御跡を慕われて同行千有余人を従えて御巡幸あらせられました。

 それから後は建武元年(1334年)足利氏と新田氏の戦乱が起こり、新田氏一族堀口美濃守貞満の乱を始めとする戦乱で幾度と諸堂伽藍を焼失するも、このような危難の中、御本尊だけは辛うじて後方の山中に移し奉って御安泰なることを得ました。以後文明十一年(1479年)の再興までは二度の兵燹に遭い、一時期は衰退を迎えるも、人皇百五代・後土御門天皇(1442-1500)の御宇、文明十一年(1478年)薩摩国鹿児島の慈眼寺住職道破拾穀(どうはじっこく)上人が海山を越えて遥々尋ね来て、本堂及び諸堂を再興して尊像の御心を安め奉ったのです。

 その後幾多の星霜を経て大破したので、明治八年(1875年)豪泰法印が再建の願主となり、同十二年(1879年)現在のお堂が再建されています。このように当山は古来より観音信仰の霊験厚く、また天皇、法皇を始めとする皇室、朝廷、有力豪族や民衆からの帰依厚く、益々の隆盛を極めました。

 当山では西国三十三番の満願霊場として花山法皇が詠まれた御製三首の御詠歌にちなんで三つの御朱印をお授けしております。三つの御朱印は本堂(観音堂)、満願堂、笈摺堂を指し、それぞれ現在・過去・未来を表しているとされております 。
(西国三十三所巡礼の旅より引用)
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参拝日:2011年12月4日(日)
第二十番札所 西山 善峯寺
御 詠 歌
野をもすぎ 山路にむかふ 雨の空 善峯よりも 晴るる夕立
御本尊
千手観世音菩薩
宗 派
天台宗単立
開 基
源算上人
開創年
長元2(1029)年
所在地
京都市西京区大原野小塩町1372   TEL:075-331-0020
拝観料
500円
 URL


西国三十三霊場 御朱印・本尊御影・梵字本尊

◆札所データ 
当山は、長元2年(1029)源算上人の開山である。源算上人は、恵心僧都の高弟で、因幡(鳥取)に生まれ、横川(比叡山)の恵心僧都に従い、顕蜜の蘊奥を極め47歳の時、当山に入られ小堂を結び、十一面千手観音の像を刻み本尊となし、仏法を興隆された。長元7年9月、後一条天皇より、鎮護国家の勅願所と定められ良峯寺の寺号及び聖詠を賜わった。

"野をもすぎ 山路に向う、 雨の空 善峯よりも 晴るる夕立"

以来歴朝の御崇敬篤く、長久3年、後朱雀天皇、洛東鷲尾寺より本尊仁弘法師作、十一面千手観音像を当山に遷して本尊とし、先の十一面千手観音像を脇立とされた。 白河天皇、諸堂を建立し給い、その後慈鎮和尚善恵上人、その高徳を相嗣がれ、また青蓮院の宮が代々当山に住まわれた。即ち覚快、道覚、慈道、尊円、尊道、尊祐、尊真、尊寳、尊證、各法親王である。そして西山の宮(門跡)と称された。

後花園天皇(102代)が伽藍を改築せられ、僧坊52の多きに及んだが、応仁の乱に兵火を免れず焦土と化した。

その後徳川五代将軍の母堂桂昌院が当山を復旧され、二百石及び山林42万5千坪を寺領とし明治に至った。

重要文化財として、多宝塔・大元師明王軸 その他文化財多数あり。
(西国三十三所巡礼の旅より引用)

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参拝日:2011年10月23日(日)
第一番札所 那智山 青岸渡寺
御 詠 歌
補陀洛や 岸打つ波は 三熊野の 那智のお山に ひびく滝津瀬
御本尊
如意輪観世音菩薩
宗 派
天台宗
開 基
裸形上人
開創年
仁徳天皇御代(313-399)
所在地
和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山8番地 0735-55-0001
拝観料
無料
 URL


 紀伊半島に大きな被害をもたらした台風12号の影響で延期になっていた青岸渡寺へ行ってきた。ご存知の通り青岸渡寺は那智勝浦にあるお寺。同じ近畿の和歌山県であるが、えらく遠いのである。交通費もバカにならないので青岸渡寺だけは、安くて行けるバスツアーで行くことにした。

 今回は阪急交通社のバスツアーで朝・昼・夕と三食付で3,980円のツアー。西国三十三所ツアーの第一回ということで多くの旅行会社が客寄せの為に格安で催行している。

 本来は阪和道で田辺まで行き国道311号・168号を通り新宮に抜け那智勝浦の予定であったが、前日の大雨で国道311号が土砂崩れで通行止め。したがって海岸線沿いの国道42号線で那智勝浦へ。少し遠回りにはなるが景色を楽しむことができた。


 国道から那智川沿いの那智山道路に入ると景色は一変。台風12号による被害の大きさに驚きが隠せない。走るバスの中からの何枚か写真におさめてみた。一日も早い復興を願います。

 出発から5時間半の長旅で青岸渡寺に到着。参道に入ったところで集合写真を撮った後は各自で本堂へあがる。お参りをすませ後朱印をいただく。バスツアーの場合は、添乗員がご朱印を代行でもらってくれるのだが、ご朱印は自分でいただくものという気持ちが強いので、あえて添乗員にはお願いせず自らいただくことにしたのだ。この辺は気持ちの問題かな・・・。


 青岸渡寺と隣接する那智大社も見学。写真でわかるとおり土砂が流れ込んだ拝殿付近は立ち入り禁止となっており、現在も土砂の搬出作業が行われていた。

 今回の青岸渡寺で三十一ヶ寺納めることができた。残すところあと二ヶ寺。年内満願を目指す。


西国三十三霊場 御朱印・本尊御影・梵字本尊
◆札所データ
 補陀洛(ふだらく)や岸打つ波は三熊野(みくまの)の那智のお山にひびく滝つ瀬」と御詠歌で親しまれている西国第一番の札所であります。当山の縁起に開基は仁徳帝の頃(4世紀)。印度天竺の僧、裸形(らぎょう)上人が那智大滝において修行を積みその暁に滝壷で24cmの観音菩薩を感得し、ここに草庵を営んで安置したのが最初です。

 その後、200年推古天皇の頃、大和の生佛上人が来山し、前述の話を聞き一丈(3m)の如意輪観世音を彫み、裸形上人が感得した24cmの観音菩薩を胸佛に納め勅願所として正式に本堂が建立されたのです。

 平安朝中期から鎌倉時代には、「蟻の熊野詣」といわれ、熊野三山の信仰がさかんになり、この時、65代花山法皇が三年間山中に参籠され那智山を一番にして近畿各地の三十三観音様を巡拝されましたので、西国第一番札所となりました。

 現在の本堂は織田信長南征の兵火にかかり、天正18年(1590)豊臣秀吉によって再建され、桃山時代の建築をとどめ南紀唯一の古い国指定の重要文化財建造物で、この堂の高さは18mで、大滝の落口の高さとおなじであるといわれています。

 青岸渡寺尊勝院は、中世以降は天皇、皇族の熊野詣での宿泊所にあてられていました。不開門は同院の入り口にある唐破風の四脚門で有名。なお、大正7年に那智の滝参道口・沽池と呼ばれるところから発掘された、飛鳥・白鳳時代から鎌倉時代初期にかけての熊野信仰を知る貴重な那智経塚出土品のうち、白鳳、奈良時代の観音菩薩立像、また藤原時代後期の金剛界三昧耶形(曼荼羅を立体的に表現)が国指定重文になっています。境内からは那智の滝、那智原始林、太平洋の眺めもよく、南北朝時代の重文・宝篋印塔(4.3m)や梵鐘があります。
(西国三十三所巡礼の旅より引用)
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