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July 2014アーカイブ

走行日
2014年7 月26日(土)
天 候
ピーカン
同行者
単独






 
 

武庫川サイクリングロードがあるのは以前から知っていた。そのサイクリングロードは、武庫川と仁川との合流点を起点とし鳴尾浜まで約7.1kmの自転車専用道だ。この7.1kmを走るために、わざわざ西宮市まで出て行くのもどうかなと思っていた。

インターネットで兵庫県のサイクリングロードを調べていると宝塚から武庫川の右岸河川敷に自転車道があり、そのまま武庫川サイクリングロードに接続しているようだ。要するに宝塚から鳴尾浜まで一般道を一切使わない自転車道が続いているのだ。

それなら走りに行くかってことで、今回行ってきた。宝塚までどうやって行こうかと考えたが、遠回りするのならルートは複数あるが、最短で行こうと思うとR176を通ることになる。このルートは道が狭く交通量も多い。ましてや大型車が多いので、快適に走ることはできない。ならば、軟弱チャリダーには、もってこいの宝塚まで輪行があるではないか。通勤定期があるので交通費もかからない。

自宅から新三田駅までチャリを走らせ、駅前で輪行袋に収納。電車移動で宝塚へ。宝塚から武庫川沿いを南下。新宝塚大橋の手前で武庫川河川敷へと下りる。ここから鳴尾浜まで、車や信号を気にすることなく走ることができる。道幅は広く、ジョギングやウォーキングをしてる人がいても気にならない。

やがて仁川との合流点を過ぎると武庫川サイクリングロードに入る。武庫川サイクリングに入ると道幅は狭くなり対面通行の自転車専用道となる。並走する形で歩行者用の道があるので、道幅が狭まっても、さほど気にはならない。松林の中を快適にチャリを走らせる。

武庫川サイクリングロードの終点を通り過ぎ、引き返す。最初に上にあがれるところから河川敷を離れ、一般道を阪神鳴尾浜球場、甲子園球場と周ってから、R43を尼崎に向けて走る。

北側の阪神尼崎駅を通り過ぎてすぐの開明小学校の塀沿いに「尼崎城址」の碑がポツンと建っている。碑を写真におさめ、開明小学校の北西に位置する尼崎城址公園へ。さほど広い公園ではないが、石垣と土塀が模擬復元されており、公園内にある尼崎中央図書館も石垣と土塀で囲われ城址らしさをアピールしている。

尼崎城址公園から北上し、弥生時代全期間に渡る集落遺跡である田能資料館へ。木棺や甕棺など多くの墳墓が発掘された遺跡である。資料館には、出土した棺や甕、石器などが展示されており、屋外には住居や高床式倉庫が復元されている。

田能資料館を後にし伊丹スカイパークへ。大阪国際空港の西側に面する大型の公園で、旅客機の離着陸を目の前で見ることができる。

この後、JR中山寺か宝塚まで戻る予定であったが、あまりに暑いので「今日は、このへんで勘弁しといたろう」と軟弱ぶりを発揮し、JR伊丹から輪行で三田へと戻った。





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走行日
2014年7 月21日(月)
天 候
晴れ
同行者
単独





 
 


2008年3月31日がラストランとなり廃線となった三木鉄道の廃線跡地に行ってみたいと思い立ち自転車で行ってきた。

県道18号・20号と辿って三木市街地へと入る。せっかく三木まで来たのだからと三木城跡に立ち寄ってみる。三木城は三木合戦(三木の干殺し)で有名な城である。三木城の主郭跡は上の丸公園として整備されており、本丸跡(天守台)には「今はただうらみもあらじ諸人のいのちにかはる我身とおもへば」と記された三木合戦時の城主別所長治公辞世の歌碑が建ってる。

先に記した三木合戦に黒田官兵衛が参戦していたとのことの影響であろう。観光客で賑わうほどではないが、途切れることなく人が訪れ三木合戦図や三木城址説明板を取り囲んでいる。NHK大河人気恐るべしである。特に三木合戦図はじっくりと読む人が多く、人が途切れて三木合戦図前に愛車TRIACE S220を入れての写真撮影に時間を要してしまった。

■三木城
三木城は東播磨の有力戦国大名だった別所氏の居城で、15世紀後半に別所則治が建てたとされる。台地の先端に築かれた丘城で、北西は川が遮り、南と東には山上に要害等を配置し堅固な城だったという。有名になるのは城主 別所長治の時に起こった織田軍(秀吉)との三木合戦で、秀吉は周囲に数多の付城を築き三木城を包囲。毛利方からの兵糧搬入を阻害し続け、2年もの攻防の末、多くの砦を落とされ兵糧も尽きた別所氏は自害し、降伏開城となった。城は1615年の一国一城令で廃城となった。

■三木合戦(三木の干し殺し)
天下統一を目指す織田信長は、天正5年(1577)に、中国地方の戦国大名毛利輝元を打つため、羽柴秀吉を総大将に任じ播磨に進行させました。播磨の守護代である小寺氏や別所氏など有力武将は、秀吉率いる織田軍に加勢することを約しました。別所氏は、村治、安治のころより織田氏とかかわりが深く、長治の叔父重棟は既に織田方として従軍していました。毛利氏の庇護にあった前将軍義昭は、諸将に織田軍に叛き毛利氏に加勢するよう働 きかけていたため、別所長治を中心に播磨の武将は織田方に反旗を翻し、三木合戦へと発展していきました。(天正6年)

秀吉は、播磨の武将をまとめる別所氏との直接対決で、兵力が消耗することを避け、三木城を領内の播磨内陸部との連絡を絶ち孤立化させるため、三木城の北側に付城群を築き、別所氏に味方する播磨各地の城攻めを行いました。別所方は三木城に新城をあらたに築き合戦に備えていましたが、周辺の城が落とされ兵糧も十分に確保できなくなり、毛利氏、荒木村重などからの兵糧補給を頼りとしていました。荒木氏は丹生山の明要寺を経由し密かに兵糧を補給し、毛利氏は海路明石魚住から補給していました。三木城周辺での戦は、天正6年(1578)10月に平井山の合戦があったほか、天正7年2月魚住からの補給をめぐる戦いが、5月には丹生山での戦が、9月には平田での戦があったことが記録に見えます。これらの戦いは兵糧をめぐる攻防だったと思われ、戦いのたびに兵糧の搬入路を失っていきました。なかでも天正7年2月の戦いの後、織田信忠によって三木城の南側に付城が築かれ、魚住からの搬入が思うようにいかなくなり、迂回して大村坂より搬入することとなって、平田の戦へとつながっていきます。

別所方にとっては兵糧を確保する重要な戦であったのですが、そのたびに多くの武将と兵糧の搬入手段を失い、食料が尽きた城内の領民や兵は餓えに苦しみ悲惨な状況であったと云われ、城主長治は領民の命を救うため、天正8年(1580)1月、一族とともに自刃し開城しました。この合戦を別名「三木の干し殺し」と呼ばれています。


三木城を後にし、三木鉄道記念公園に向かいます。三木鉄道記念公園は、2008年4月1日に廃止(ラストランは前日の3月31日)になった三木鉄道三木線三木駅の駅舎周辺を15m移築・改築した公園である。この廃線跡を少し辿ってみることにする。旧高木駅・旧別所駅を見つけることができた。高木駅は単式ホーム1面1線のみを有する地上駅。東西に走る線路の北側に簡単なホームを添えただけのつくりとなっている。駅舎はなくホームの上に短い上屋があるのみだ。

続いて訪れたのが旧別所駅。ここも単式ホーム1面1線を有する地上駅である。東西に走る線路南側にホームが設けられ、ホームに接して古い木造駅舎が残されている。内部に待合所的な木製ベンチが設けられている。待合所の出札窓口等は板で塞がれている。駅舎入口左手に真新しく立派な「三木鉄道記念碑」が建っている。表面に「三木鉄道の歴史・沿革年表」が記されており、裏面には在りし日の三木電鉄車両走行風景が描かれている。

今回の三木鉄道廃線辿りはここまで。荒れ果てた線路跡を自転車走行するのはちょっと無理なので、次回は三木鉄道記念公園までバイクできて、徒歩で廃線跡を歩いてみたいと思う。

後は帰宅するだけだが、自宅まで約30kmの道のり、まして登りとなる。さすがに暑い陽射しのおかげで体力消耗の帰路となった。途中自動販売機で買った炭酸飲料がなんと美味しかったことか。(ワンコインで500mlのペットボトル飲料が買えるチェリオの販売機があったら、そこで休憩と決めてペダルを回してたんですよ。)

帰宅後シャワーを浴びてからの冷えたビールは最高であった。 




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登頂日
2014年7月19日(土)
天 候
曇り→晴れ
同行者
単独

阪急甲陽園⇒北山公園⇒北山貯水池⇒鷲林寺⇒観音山⇒ゴロゴロ岳⇒奥山貯水池⇒ドビワリ峠⇒六甲山最高峰⇒有馬温泉








8月のオフ会下見を兼ねての山行に出かけた。今回の下見コースは、阪急甲陽園駅から北山公園を抜け北山貯水池を経て鷲林寺(りゅうりんじ)へ。鷲林寺から観音山・ゴロゴロ岳に登り奥山貯水池のルート。

阪急甲陽園駅から北山公園を抜け北山貯水池へのコースは初めて歩く。公園と名が付いているので、平坦なコースを想像していたが、それなりにアップダウンがある。阪急甲陽園から北山貯水池まで、思ったより時間がかかってしまった。

北山貯水池から一般道へ出ると、すぐに鷲林寺バス停だ。ここからのルートは6年前に歩いているが、なんせ6年も前ってことで、はっきりと覚えていない。

バス停から鷲林寺までは参道歩き。鷲林寺に入り、本堂右手奥にある荒神堂の右横が観音山への登山口だ。ここから観音山まで40分弱だが、かなりの急登だ。ルートの断面図を見ていただくときつさがわかってもらえると思う。

観音山からゴロゴロ岳までは、緩やか道が続く。6年ぶりにやって来たゴロゴロ岳には、立派な山名石碑が立ち、山頂のすぐ横には立派な建物が建設中だ。この辺りは、保養所的な建物が幾つかあるので、この建物もそのようなものだろう。

ゴロゴロ岳から奥山貯水池までは舗装路を下る。オフ時は、ここからバスでJR芦屋駅に戻る予定だが、阪急甲陽園駅からここまで約3時間を要した。それなりにゆっくり歩いたつもりではあるが、オフ会で数人で歩くことと昼食時間を考えると5時間程度必要になると思われる。今度のオフ会は、山の後のなにわ淀川花火大会がメインなので5時間の時間を取ることはできない。さてさて、どうしたものか。鷲林寺までバスで移動するか、それとも別の山にするか。別の山と言っても下見に行けるかどうかわからないので、これまでの同オフで登った甲山か五月山しか思い当たらない。

オフのことは、これから考えるとして、今日はどうするかだ。このままバスで戻るのもなんなので六甲山最高峰まで行くことにする。奥池バス停の一つ南側が東おたふく山登山口バス停なので、東おたふく山経由でとも思ったが、東おたふく山は先月同ルートで登っている。ということで、林道でドビワリ峠、七曲を登って一軒茶屋へ。ついでなので六甲山最高峰へも足を伸ばした。

下山は魚屋道で有馬温泉へ。温泉で一汗流したいとこだが、一人だし、帰宅するだけなので温泉はパスして、神戸電鉄で三田へと戻った。




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走行日
2014年7 月12日(土)
天 候
晴れ
同行者
単独





 
 


今日はどこに行こうか・・・。何も考えてなかったので、ぷらっとポタリングに出かけることにした。

川西の多田銀銅山跡・多田神社・大阪国際空港(伊丹空港)・有岡城跡あたりまで走ってみることにする。

前々から欲しいと思いながらも400円という高額出費(笑)に躊躇し、なかなか購入しなかったiPhoneアプリの「自転車NAVITIME」を清水の舞台から飛び降りたつもりで購入。余談になるが清水の舞台から飛び降りた人って本当にいるのだろうか・・・という疑問が湧いてきたのでググってみた。

塔頭・成就院は清水寺山内の全般的管理役にあるため、山内で事故があればまず通報を受け、対応にあたり、町奉行所への届け出を担当。それらを日報として、現在も日々記録し続けているのが成就院『御日記』で、そこに事故処理の全記録が記されていたのだ。ただし残念ながら、残存する記録は元禄七年(一六九四)以降、百七十一年間のうちの百四十八年分のものである。それによると、元禄七年から明治五年に京都府が「舞台飛下り」禁止令を出すまでの間で、総件数は引き留め未遂を含め二百三十五件で二百三十四人(洛中の 同一の娘が二回実行)。これらは単なる自殺志願ではなく、命をかけて観音さまに祈願し、願いが叶えられれば存命するという清水観音信仰によるものだったというのである。

余談はさておき、「自転車NAVITIME」は、音声案内やルートの高低差グラフなど、自転車に特化したナビゲーションアプリ。ルート検索に関しても、距離が短い・坂道が多い・坂道が少ない・大通り優先などから選択が可能。軟弱チャリダーとしては「坂道が少ない」が非常に魅力的である。

豊臣秀吉の埋蔵金伝説など、神秘とロマンに彩られた多田銀銅山に立ち寄ろうと思い、最初の目的地として「多田銀銅山悠久の館」を指定し「自転車NAVITIME」でルート検索。もちろん坂道が少ないルートを選択する。

我が家を出発し、北摂里山街道に入り進んで行く。道の駅いながわの三叉路の手前数kmのところで北摂里山街道から外れ右後方へ入るというのを頭に入れ坂道を下っていくが、右に入る道が見当たらない。これはおかしいぞ!と自転車を止め、ポケットからiPhoneを取り出し確認。な・なんと1km程通り過ぎている。

右に入る道を見落としてしまったかと思い。下ってきた道を上り返す。アホなことをしたもんだ。登らなくてもよい坂道を1kmも登る羽目になってしまった。テンションだだ下がりで登り返す。サイコンで確認すると1kmちょと戻ったようだが道が見当たらない。またまた止まってiPhoneで確認。えっ、また通り過ぎてる、そんなバカな!ってことで、今度は片手にiPhoneを持ちマップを確認しながら進む。該当の場所付近でさらに速度を緩め進むが無い。ナビに騙されたっ・・・。テンションは、さらに下がり、多田銀銅山はパスし、清和源氏発祥の地とされる多田神社に向かう。

多田神社からは大阪国際空港へ。滑走路北西端に整備された公園「エアフロントオアシス下河原」でしばし旅客機の離着陸を見る。すぐ眼の前から飛び立っていく姿は圧巻だ。

大阪空港からはJR伊丹駅前にある有岡城跡へ。もともと伊丹市民であり馴染み深い有岡城跡。子供たちがボール遊びをするくらいで、一般の観光客らしき姿は見たことがない有岡城跡に観光ボランティアに引き連れられた観光客が2組。有岡城は、今年のNHK大河ドラマで取り上げられている黒田官兵衛ゆかりの城である。有岡城主であった荒木村重が織田信長に謀反を起こす。その説得に有岡城を訪れたのが黒田官兵衛であった。荒木村重により説得に赴いた黒田官兵衛は城内の牢獄に約1年にわたり幽閉されてしまったのである。視聴率が伸び悩んでいた大河ドラマも荒木村重謀反で一気に盛り上がり視聴率もV字回復。その影響であろう多くの人が有岡城跡を訪れているようだ。

時間も1時を過ぎ、小腹が減ってきたので学生時代アルバイトをしていたイズミヤ昆陽の里店のSUGAKIYAのラーメンで腹ごしらえ。その後、昆陽池公園とわが母校である伊丹市立天王寺川中学校・兵庫県立伊丹北高等学校を経由してJR中山寺へ。JR中山寺からは輪行で新三田まで戻った。新三田から自宅までの走行も合わせ約65kmの工程であった。




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