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August 2011アーカイブ

登頂日
2011年8月27 日(土)・28日(日)
天 候
晴れ/曇り
同行者
囲炉裏村メンバー5名

林道駐車場所⇒七面山登山道⇒七面山(西峰)⇒七面山(東峰)⇒七面山(西峰)⇒あけぼの平⇒槍の尾⇒あけぼの平⇒七面山(西峰)⇒七面山登山口⇒林道駐車場所
山行詳細データ(ルートMAP・断面図 他) by GARMI etrex VISTA HCx
※駐車地点⇔登山口の林道でGPS補足が正確に行われていません。










 村の仲間O氏のお誘いで、7月の弥山・八経ヵ岳に続き大峯山系の七面山に行ってきた。

 前日の午後1時に近鉄大和八木駅に集合。今回は登山口近くで前泊して、翌朝から七面山に登る。車2台に分乗して現地へ向かう。途中夕食(BBQ)の買い物をして車を走らせるが、雨がポツポツ落ちてきた。峠道に入るころには大雨になった。

 本日の宿泊場所は、大塔町高野辻ヘリポートの横にある高台の公園。大きな東屋があるので、雨でもBBQが楽しめる。現着時には幸いにも雨は小降りに。まずは、みんなで荷物を高台の東屋に運びあげる。

 各自テントを設営してからBBQに突入。雨もあがり景色を楽しんだり、日が暮れてからは満天の星空を楽しみながらの長時間にわたるBBQ。美味しく楽しい時間を過ごした。夜中には満天の星空。翌朝目覚めると、目の前に素晴らしい雲海が広がっていた。絶好のポイントで野営できて最高であった。

 翌朝、ヘリポートを後にし七面山登山口へ向かう。途中「崩落通行止」の標識があったが行けるとこまで行こうと先に進む。林道閉鎖地までは入れなかったが、近くまで入れたので、そこからスタートすることにした。スタート地点から、元々の駐車予定地まで20分ほどであった。

 スタートから約1時間半林道を歩いたところで、やっと七面山の登山口に到着。登山口から尾根に出るまで30分ほど急登が続くが、ゆっくりとしたペースで登ったので、さほど疲れることはなかった。

 七面山が初めてな我々にO氏は「七面山は根の山」と聞かされていた。尾根道に入って、その言葉の意味がはっきりとわかった。木の根が山道を覆っているような感じだ。ひどいとこでは木の根っこの階段を登るような場所もある。雨上がりで濡れた木の根は滑りやすいので一歩一歩注意しながら登る。

 登山道の脇には多くの石楠花の木がはえている。開花の時期に来ればシャクナゲのトンネルになり、さぞかし綺麗なんだろう。機会があれば、その季節に登ってみたいものだ。

山頂が近づくと笹原になる。ここから七面山西峰まで最後の登り。斜度は結構きつい。一気に登ると七面山西峰(1,616m)。西峰にザックをデポし、空身で七面山東峰(1,624m)へ。

 東峰でバンダナショット撮影後、西峰に戻り、本日最後のピーク槍ノ尾へ向かう。槍ノ尾直下の笹草原アケボノ平にまたまたザックをデポしてピークを目指す。頂上の手前に壊れた小屋の跡がある。今回の山行前にネットで調べてた時に何名かの方のホームページやブログにこの小屋の写真がアップされていた。それらの写真は、まだ小屋の形をとどめていたが、現在は、完全に崩れた状態だ。(Picasaウェブアルバム参照) ここから少し進むと三角点のある槍ノ尾山頂(1.556.4m)である。

 アケボノ平に戻って昼食。昼食後はピストンで下山。八木西駅近くまで戻り、ジャンボ大ジョッキーでビールを提供してくれる店でお疲れさんのアワアワ。

 楽しい二日間を過ごすことができた。ご一緒いただいたみんなに感謝!

 この山行の翌週台風12号により、紀伊半島に記録的な雨が降り、河川氾濫・土砂災害など甚大な被害が出てしまった。七面山がある五條市もかなりの災害を被ってしまったようだ。一日も早い復興を祈りたい。
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登頂日
2011年8月21日(日)
天 候
曇り/雨
同行者
囲炉裏村メンバー4名

エクセル住吉台⇒〔石切道〕⇒六甲全山縦走路出合⇒みよし観音⇒記念碑台



 前々日の金曜日に久しぶりに山仲間の店に立ち寄ると、Sさんが来ておられた。その後pさんも来店され、みんな日曜日の予定がないってことだったので、それじゃ、どっか行こうってことに。

 残念ながら日曜の天気予報は雨だったので、六甲に登って山上で宴会をしようということに。雨が降っても屋根のある東屋がある記念碑台を目的地とした。どこから登るかについては、いろいろ出たが、くるくるバスでエクセル住吉台まで行き、そこから五助谷を詰めて六甲全山縦走路に出ようということになった。

 当日JR住吉駅に集合。集合時には雨は降ってなかったのだが、バス停に移動する間に降り出した。エクセル住吉台に着いてもやむ気配はない。雨の中の五助谷はどうかということになり、結局石切道から登ることになった。

 石切道を登るのは久しぶり、まだ山を始めて間がないころに登り、石がゴロゴロしていて歩きにくかったというイメージが残っている。実際に登ってみると確かに石がガレているが以前ほどではないような気がする。ただ、登って宴会が今回のメインであるからか、えらく長く感じた。こんなに長かったかなーというのが感想だ。

 雨ということもあり不快指数100%の蒸し暑さ。宴会用の食材・調理具など、いつもよりかなり重いザックを背負っているので、けっこうしんどい。暑い!まだか!などと思いながら登り全縦路に到着。ここから記念碑台まではほぼ平坦な道。

 記念碑台に到着後、宴会準備班とビール買出班に分れて宴会の準備。焼鳥とバーベキューでの宴会。宴会中に雨は激しさを増しきたので、ゆっくりと飲んでバスで下山という軟弱コースを参加者全員一途で決定。ゆっくりと宴会を楽しんで下山した。
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参拝日:2011年8月16日(火)
第二十一番札所 菩提山 穴太寺
御 詠 歌
かかる世に 生まれあふ身の あな憂やと 思はで頼め 十声一声
御本尊
聖観世音菩薩
宗 派
天台宗
開 基
大伴古麿
開創年
慶雲2(705)年
所在地
京都府亀岡市曽我部町穴太東辻46 0771-24-0809,22-0605
拝観料
境内自由 本堂・庭園:500円



西国三十三霊場 御朱印・本尊御影・梵字本尊

◆札所データ
宝徳2年(1450年)成立の『穴太寺観音縁起』によれば、慶雲2年(705年)、文武天皇の勅願により大伴古麻呂が開創したとされる。

穴太寺の聖観音像は「身代わり観音」の伝説で知られ、この伝説が『今昔物語集』に取り上げられていることから、平安時代末期には観音霊場として当寺が知られていたことがわかる。『今昔物語集』所収の説話によると、昔、丹波国桑田郡の郡司をしていた男は、都の仏師に依頼して聖観音像を造り、仏師には褒美として自分の大切にしていた名馬を与えた。しかし、与えた名馬が惜しくなった男は、家来に命じて仏師を弓矢で射て殺してしまった。ところが、後で確認すると仏師は健在で、観音像の胸に矢が刺さっていた。改心した男は仏道を信じるようになったという。同様の説話は『扶桑略記』にもあるが、ここでは男の名が「宇治宮成」、仏師の名が「感世」とされている。
(Wikipediaより引用)
参拝日:2011年8月14日(日)
第二番札所 紀三井山 金剛宝寺(紀三井寺)
御 詠 歌
ふるさとを はるばるここに 紀三井寺 花の都も 近くなるらん
御本尊
十一面観世音菩薩
宗 派
救世観音宗(総本山)
開 基
為光上人
開創年
宝亀元(770)年
所在地
和歌山県和歌山市紀三井寺1201 073-444-1002
拝観料
200円
 URL





西国三十三霊場 御朱印・本尊御影・梵字本尊

◆札所データ
紀三井寺は、今からおよそ1230年前昔、奈良朝時代、光仁天皇の宝亀元年(AD770)、唐僧・為光上人によって開基された霊刹です。

為光上人は、伝教の志篤く、身の危険もいとわず、波荒き東シナ海を渡って中国(当時の唐国)より到来されました。

そして諸国を巡り、観音様の慈悲の光によって、人々の苦悩を救わんがため、仏法を弘められました。行脚の途次、たまたまこの地に至り、夜半名草山山頂あたりに霊光を観じられて翌日登山され、そこに千手観音様の尊像をご感得になりました。

上人は、この地こそ観音慈悲の霊場、仏法弘通の勝地なりとお歓びになり、十一面観世音菩薩像を、自ら一刀三札のもとに刻み、一字を建立して安置されました。それが紀三井寺の起こりとされています。

その後、歴代天皇の御幸があり、また後白河法皇が当山を勅願所と定められて以後隆盛を極め、鎌倉時代には止住する僧侶も五百人を越えたと伝えられています。江戸時代に入ると、紀州徳川家歴代藩主が頻繁に来山され、「紀州祈祷大道場」として尊這崇されました。

正式には「紀三井山金剛宝寺護国院(きみいさんこんごうほうじごこくいん)」という当時の名称を知る人は少なく、全国に「紀三井寺」の名で知られていますが、この紀三井寺とは、紀州にある、三つの井戸が有るお寺ということで名付けられたといわれ、今も境内には、清浄水(しょうじょうすい)、楊柳水(ようりゅうすい)、吉祥水(きっしょうすい)の三井より清水がこんこんと湧き出して、年中絶えることがありません。(紀三井寺の三井水は昭和60年3月、環境庁より日本名水百選に選ばれました)

西国三十三所観音霊場第2番目の札所である当寺は、観音信仰の隆盛に伴い、きびすを接する善男善女は数えるにいとまなく、ご宝前には日夜香煙の絶え間がありません。

特に、ご本尊・十一面観世音菩薩様は、厄除・開運・良縁成就・安産・子授けにご霊験あらたかとされ、毎月十八日の観音様ご縁日を中心に、日参、月参りの篤信者でにぎわいます。

春は、早咲きの名所として名高く、境内から景勝・和歌の浦をはじめ淡路島・四国も遠望出来る紀三井寺は観光地としても有名で、古来文人墨客にして杖引く人も多く、詩歌に、俳諧に、絵画にと、多くの筆の跡が遺されています。

紀三井寺は以前、真言宗山階派の寺院でしたが、昭和26年に独立し現在は、山内・県下あわせて十六ヶ寺の末寺を擁する救世観音宗(ぐぜかんのんしゅう)の総本山となっています。
(紀三井寺WEBサイトより引用)
参拝日:2011年8月14日(日)
第三番札所 風猛山 粉河寺
御 詠 歌
父母の 恵みも深き 粉河寺 ほとけの誓ひ たのもしの身や
御本尊
千手千眼観世音菩薩
宗 派
粉河観音宗(総本山)
開 基
大伴孔子古
開創年
宝亀元(770)年
所在地
和歌山県紀の川市粉河2787 0736-73-4830・3255
拝観料
境内自由 本堂内陣:300円
 URL





西国三十三霊場 御朱印・本尊御影・梵字本尊

◆札所データ
■草創 
奈良時代末 宝亀元年(770)の開創。当時、紀伊国那賀郡に住む 猟師大伴孔子古は、いつも幽谷の樹幹に足場を定めて、夜ごと猪や 鹿を狙っていたが、ある晩、光明輝く地を発見、発心してその場所に柴の庵を建てた。

  後日、一夜を泊めてもらった童行者は、孔子古の願い(庵に仏像を安置すること)をかなえてやろうと、七日七夜、庵にこもり、等身の千手観音像を刻み立ち去った。

  その後時移り、河内国の長者佐太夫の一人娘が長患いしていた。そこへ童行者が訪ね来て千手陀羅尼を誦して祈祷、やがて娘の病は回復した。童行者は長者がお礼にと申し出た七珍万宝を断り、娘が捧げるさげさや(お箸箱)と袴のみを手に「紀伊国那賀郡粉河の者だ」とのみ告げて立ち去った。

  翌年春、長者一家は粉河を訪れたが、探しあぐねて小川の傍らで一休み、ふと流れる水が米のとぎ汁のように白いのに気がつき、粉河の証しであることを確信、さらにその川を遡り庵を発見した。扉を開けると千手観音が安置され、娘が差し出したさげさやと袴を持たれていたので、かの童行者は、実は千手観音の化身であったことが分かった。この開創の由来は、当寺所蔵の粉河寺縁起絵巻(国宝)等にて伝えられている。

■沿革
 草創時この方、粉河寺は多くの人達の信仰をうけて繁栄し、鎌倉時代には七堂伽藍、五百五十ヶ坊、東西南北各々四キロ余の広大な境内地と寺領四万余石を有していたが、天正十三年(1585)豊臣秀吉の兵乱に遭遇し、偉容を誇った堂塔伽藍と多くの寺宝を焼失した。その後、紀州徳川家の庇護と信徒の寄進によって、江戸時代中期から後期に現存の諸堂が完成した。
(粉河寺WEBサイトより引用)
参拝日:2011年8月14日(日)
第四番札所 槙尾山 施福寺
御 詠 歌
深山路や 檜原松原 わけゆけば 巻の尾寺に 駒ぞいさめる
御本尊
十一面千手千眼観世音菩薩
宗 派
天台宗
開 基
行満上人
開創年
欽明天皇時代(539?571)
所在地
大阪府和泉市槙尾山町136 0725-92-2332
拝観料
無料





西国三十三霊場 御朱印・本尊御影・梵字本尊

◆札所データ
■創建伝承
古くは槇尾山寺と呼ばれた山岳寺院で、葛城修験系の寺院として創建されたものとみられる。南北朝時代成立の寺史である『槇尾山大縁起』(正平15年・1360年書写)によると、施福寺は欽明天皇の時代、播磨国加古郡の行満上人が創建したものであるという。

札所本尊の千手観音像については、次のような説話が伝承されている。宝亀2年(771年)のこと、当時槇尾山寺に住していた摂津国の僧・法海のもとに、一人のみすぼらしい格好をした修行僧があらわれ、夏安居(げあんご)の期間をこの寺で過ごさせてくれと頼んだ。この修行僧は客僧として槇尾山寺に置いてもらえることとなり、夏安居の期間、熱心に修行に励んだ。予定の期間が終わって寺を辞去しようとする際、客僧は帰りの旅費を乞うたが、寺僧たちはそれを拒んだ。すると、客僧は怒り出し、「何ということだ。この寺は、見かけは立派だが、真の出家者などはいないではないか。このような寺はいずれ滅び去り、悪鬼の棲家となるであろう」と叫んで、出て行ってしまった。驚いた法海が後を追うと、修行僧ははるかかなたの海上を、沈みもせずに歩いている。これを見た法海は、あの修行僧は自分らを戒めるために現れた観音の化身であったと悟り、千手観音の像を刻んで祀ったという。

縁起には役小角(役行者)、行基、空海(弘法大師)などに関わる伝承もある。役小角については、彼が自ら書写した法華経の巻々を葛城山の各所の秘密の場所に埋納し、最後に埋めたのがこの山であったことから巻尾山(槇尾山)の名が付いたとする、地名起源伝承がある。また、空海は延暦12年(793年)、20歳の時、槇尾山寺において勤操(ごんそう)を導師として出家剃髪し、沙弥戒を受けたとする伝えがある。空海の当地における出家剃髪は史実とは認めがたいが、空海が唐からの帰国後、都に戻る直前の大同4年(809年)頃、当寺に滞在した可能性は別の史料から指摘されている。縁起には、延喜16年(916年)、定額寺に定められるとするが、施福寺は度重なる火災で古記録が失われており、これも史実か否か不明である。

以上のように、施福寺の初期の歴史は伝説色が濃く、判然としないが、『日本霊異記』に言及されている「和泉国泉郡の血渟(ちぬ)の山寺」は当寺のこととされ、同書の成立した9世紀前半には著名な寺院であったことが伺われる。

■中世以降
正嘉年間(1257 - 1259年)、後白河上皇所縁の法華経と仏像が奉納されたことが縁起に見え、寺が所蔵する「法華経妙音菩薩品」(平安時代の装飾経)がそれにあたると推定されている。仁治年間(1240 - 1243年)には、仁和寺菩提院の僧・行遍によって灌頂堂(密教の師資相承の儀式を行う堂)が建立されており、中世には当寺は仁和寺の支配下にあった。

南北朝時代には南朝方の拠点の一つとなり、寺の衆徒も南朝方に与した。そのため戦火に巻き込まれることが多く、寺は衰亡した。天正9年(1581年)には織田信長と対立したことが原因で一山焼き払われるが、豊臣秀頼の援助により、慶長8年(1603年)に伽藍が復興された。

近世には徳川家の援助で栄え、その関係で寛永年間頃に真言宗から天台宗に改宗、江戸の寛永寺の末寺となった。江戸時代末期の弘化2年(1845年)の山火事で仁王門を除く伽藍を焼失。現在の本堂等はその後に再建されたものである。
(Wikipediaより引用)
登頂日
2011年8月6日(土)
天 候
晴れ
同行者
囲炉裏メンバー5名+3名(花火大会)

阪急甲陽園駅⇒神呪寺 仁王門⇒神呪寺 本堂⇒甲山⇒甲山森林公園⇒地すべり資料館⇒阪急仁川駅










 今年も『なにわ淀川花火大会』の日がやってきた。今年で23回目となる大阪の夏の風物詩といえるイベントだ。

 今年も山仲間のSさんのご好意により、Sさん所有のマンションから花火大会見物。朝から山に登り、下山後、尼崎のスーパー銭湯で汗を流し、駅前のスーパーでお寿司や惣菜、ビール等のドリンク類を購入、塚本のSさんのマンションに入り、花火大会開始まで宴会という流れは例年とおりだ。

 今年の山はどうしようかと思ったのだが、いろいろ考えるのも面倒なので、昨年とまったく同じコースにした。このコースだと時間的にもちょうどよい。

 阪急甲陽園駅に集合し、アンネのバラの公園から甲山大師道を歩き神呪寺へ。しかし毎度毎度このきつい上りの舗装道を歩くたびに「こんなとこには、よう住まんなぁ」と思ってしまう。

 神呪寺境内の展望所で休憩後、多宝塔の横から甲山への登山道に入る。九十九折の階段道を10分程登れば山頂広場に到着する。雑木に覆われ山頂は展望はほとんどないので、三角点とケルンの設置されている場所でバンダナショットを撮って甲山森林公園に下山。

 公園内のシンボルゾーンを通りレストハウス跡へ。昨年同様、ここで早めのランチタイム。

 昼食後、展望台を経て「地すべり資料館」へ下る。今年は館内見学はせず仁川駅へ戻り、阪急電車・JRと乗り継いで尼崎へ。尼崎駅近くのスーパー銭湯極楽湯へ。

 汗を流し、さっぱりしたところで、極楽湯の送迎バスで尼崎駅前まで戻り、駅前のスーパーで買出しを行い、塚本のSさんマンションへ。

 花火がはじまるまで、エアコンの効いた部屋で冷たいビールで乾杯!楽しい宴会のはじまりだ。色々な話で盛り上げっているうちに花火開始時間が近づいてくる。

 午後7時50分、花火が夜空に打ち上げられた。。マンションのバルコニーのすぐ前が打ち上げ場所。次々と打ち上げられる様々な花火に感動。今年はポケモン花火などお子様受けするような花火も打ち上げられ、あっという間に50分の花火大会はフィナーレを迎えた。

 今年も最高の特等席で感動の花火大会見学を楽しむことができた。 花火大会の模様を今年も動画撮影してみた。目では実際の花火を見ながら、チラチラッと液晶で確認しながらのデジカメ動画なので、たいした動画ではないが、よかったら見てやっていただければと思う。

 最後になったが、今年も素晴らしい観覧場所を提供していただいたSさんに感謝!ありがとうございました。


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