滝山城と八王子城を攻城(東京都八王子市)

11月16日(土)東京出張。翌日が休みなので東京で一泊し、八王子市の滝山城と八王子城を攻めてきた。

京王八王子駅からバスで「滝山城址下」へ移動。バス停から登城口はすぐである。大きな看板があるので迷うことはない。早朝だったので誰との出会わない。無料のパンフレット「滝山城城攻めマップ」をいただき城内散策。縄張り図が載っており、各所の案内板も充実しており山城初心者の方に、堀、土塁、曲輪などの遺構がわかりやすと思う。

滝山城はもともと大石氏の居城で、大永元年(1521)に大石定重によって築かれ、高月城から移転したと伝えられています。その後、大石氏の養子として入城した北条氏照が八王子城に移転するまで、関東屈指の城郭としてその威容を誇りました。

最大の特長は、加住丘陵の複雑な地形や多摩川の浸食によって形成された急峻な断崖を利用して築かれた天然の要塞である点です。標高約160メートルの丘陵上に東西約900メートルにも及ぶ広さで築かれ、南面を大手、北面を搦め手とし、城の中央部からに本丸・中の丸・二の丸・千疂敷・小宮曲輪等と配置されています。

掘・土塁などの遺構は築城から500年近くが経過した今もなお良好な状態をとどめています。また、地形を巧みに利用した縄張は、中世における城郭の歴史や文化財的価値を伝承していくうえで重要な遺跡であるとして、昭和26年(1951)に国指定史跡に指定されています。

豊臣秀吉による天下統一の機運が高まりをみせます。秀吉に対抗するため、北条氏照は天正10年(1582)頃から新たに八王子城の築城を開始し、天正15年(1587)頃までに滝山城から拠点を移します。ということで私も滝山城を後にし、八王子城へと移動します。

JR高尾駅から八王子城跡ガイダンス施設までタクシーで移動。ここから八王子城内へと攻め込んでいくことにする。登城路は整備されており、遺構を眺めながら主郭まで登っていくことができる。残念なことに八王子城について何枚か写真を撮ったところでスマホのバッテリーが切れてしまい、写真に残せなかったのが残念。

八王子城は、小田原に本拠をおいた小田原北条氏の三代目、氏康の三男、北条氏照(?から1590年)が築いた山城です。築城の時期ははっきりしませんが、天正年間に築城が開始され、氏照が滝山城から移ったのは天正12年(1584年)から天正15年(1587年)の間とする説が有力です。天正18年(1590年)6月23日、豊臣秀吉の関東制圧の一環で、前田利家・上杉景勝軍に攻められて落城しました。この、八王子城落城が決め手となって籠城を続けていた小田原城は開城、北条氏は滅亡しました。氏照はこの時、小田原に籠城中で、開城後、兄の氏政とともに城下で切腹しました。

八王子城は、関東屈指の山城です。氏照が構想していた城郭は壮大で、落城時はまだ未完成の状態であったと考えられています。城は大まかに、城下町に当たる「根小屋地区」、城主氏照の館のあった「御主殿跡」などの「居館地区」、戦闘時に要塞となる「要害地区」に分かれています。

平成2年(1990年)の落城400年という節目に、御主殿地区の石垣と虎口などの通路、御主殿に続く古道が整備されました。石畳や石垣は、発掘によって確認された当時のものをなるべく活用し、破損していた個所についても、できるだけ当時の形に忠実な復元がされています。また、見学者の案内のために管理棟が建てられ、広場に八王子城案内板が設置されました。八王子城周辺は、江戸時代には徳川幕府の直轄地、明治になってからは国有林となっていたため、あまり人の手が入らず、御主殿周辺の遺構は良好な形で残っていました。要害地区は深沢山(城山)の地形を巧みに利用して作られています。頂上に本丸が設けられ、周囲に敵の侵入や攻撃を防ぐために「曲輪」と呼ばれる平場が配置されています。

下記ホームページを参考及び一部引用させていただきました。
 滝山城築城500年ホームページ
 八王子市ホームページ