勝龍寺城 ― ガラシャの門出と光秀最後の城
京都府長岡京市に位置する勝龍寺城は、戦国時代の歴史を今に伝える貴重な城跡です。現在は「勝龍寺城公園」として整備され、美しい石垣や復元櫓、堀の水面が往時をしのばせています。しかし、この城の本当の魅力は、戦国の人々のドラマを映し出す舞台であったことにあります。


勝龍寺城の歴史と戦略的価値
勝龍寺城の起源は室町時代にさかのぼります。細川氏の一族がこの地に砦を築き、畿内の勢力争いの中で重要な役割を果たしてきました。京都に近く、東西南北への交通の要衝であったことから、戦略的価値は非常に高く、戦国大名にとって畿内制圧の拠点となったのです。


織田信長の勢力が畿内に及ぶと、勝龍寺城も支配下に組み込まれました。石垣や堀を備えた堅固な平城として整備され、信長の家臣である細川藤孝にゆかりの深い城として重視されました。


ガラシャの輿入れと勝龍寺城
天正6年、明智光秀の三女・玉、のちの細川ガラシャがこの城を訪れました。わずか15歳の玉は、細川藤孝の嫡男・忠興に嫁ぎ、その婚礼が勝龍寺城で行われたのです。戦乱の世にもかかわらず、城内は華やかに彩られ、人々の祝福に包まれました。この輿入れは、玉の新しい人生の門出であると同時に、戦国時代に生きる女性の運命を象徴する出来事でもありました。


波乱の人生とガラシャの覚悟
しかし、玉の人生は決して平穏ではありません。本能寺の変で父・光秀が信長を討つと、細川家の立場は一変します。忠興は苦渋の決断として玉を幽閉し、外部との接触を絶つことで父の謀反の影響から守りました。
やがて玉はキリスト教に入信し、「ガラシャ」と名乗ります。信仰と誇りを胸に、関ヶ原合戦を前に西軍から人質を迫られたとき、自ら命を絶ちました。その潔い最期は、戦国女性の強さと悲劇を象徴するものとして、今も語り継がれています。


光秀最後の城としての勝龍寺城
勝龍寺城は、ガラシャの人生の門出の舞台であるだけでなく、明智光秀にとっても最後に身を寄せた城として知られています。本能寺の変後、山崎の戦いで敗北した光秀は、総崩れとなった軍を率いて勝龍寺城へ退却しました。城内で態勢を立て直そうと試みたものの、兵は次々と離散し、やむなく城を出て落ち延びる途中で討たれます。勝龍寺城は、光秀の栄光と没落を象徴する「最後の城」として歴史に名を残しました。
現在の勝龍寺城跡と見どころ
現在の勝龍寺城跡は、美しい石垣や復元された櫓、堀が広がる公園として整備され、桜や紅葉の名所としても知られています。訪れる人々は、華やかな婚礼の場面、父の無念、娘の誇りと覚悟――そのすべてを歴史の舞台として感じ取ることができます。
アクセス・見どころ
- 京都市内から車で約30分、JR長岡京駅から徒歩約10分
- 復元櫓、石垣、堀を見学可能
- 春は桜、秋は紅葉が美しい歴史公園


勝龍寺城は、戦国という激動の時代を映す証人として、今も人々を魅了し続けています。ガラシャの門出と光秀の終焉、二つの物語が交差するこの城を訪れると、歴史の息遣いを肌で感じることができるでしょう。

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