武田氏館(躑躅ヶ崎館)|武田信玄が政務を執った“甲斐武田家の中枢”
- 2025.11.09
- 寺社参拝 日本100名城 城跡巡り
- 武田氏館, 勝頼, 武田神社, 土塁, 日本の城, 甲府三城, 戦国時代, 躑躅ヶ崎館, 城跡, 要害山城, 武田信虎, 武田信玄, 甲斐武田家
要害山城の主郭で甲府盆地を一望したあと、急勾配の登城道を下りながら、次の目的地へと向かいます。
麓へ戻ると、そこからほど近い場所に武田氏の居館――現在の 武田神社(武田氏館跡) が広がっています。
山の詰め城としての要害山城に対し、武田氏館は武田家が実際に暮らし、政務を執った“平時の拠点”。
両者はセットで機能する二段構えの防衛体制で、戦国期の甲斐支配を支えた中枢でした。
要害山城から武田氏館へ向かう道を歩いていると、
「信玄公もこのルートを行き来したのではないか」
そんな想像が自然と浮かんできます。
山城の緊張感から一転、館跡に流れる穏やかな空気へ。
甲府三城巡りは、ここから歴史の“核心”へと続いていきます。


■武田氏館(躑躅ヶ崎館)とは
武田氏館は、武田信虎・信玄・勝頼の三代にわたり、
甲斐武田家の政治・軍事・外交の中心となった居館です。
山城の要害山城と違い、ここは「実際の生活と政務」が行われた場所。
居館と言っても、周囲を強固な土塁と水堀で囲まれ、戦国の緊張感が漂う“守りの館”として築かれました。
現在は武田神社として整備され、信玄公が祀られています。


■土塁と堀が語る武田家の防衛思想
武田氏館の最大の特徴は、なんと言っても館を囲む大規模な 水堀と土塁。
平城の館でありながら、規模と構造は「城郭そのもの」です。
堀は幅広く、土塁は高さと厚みを兼ね備え、
“絶対に本拠は落とさせない”という武田家の覚悟が形になっています。
この防衛システムは、
麓の館(武田氏館)
+
背後の詰め城(要害山城)
による二重構造となり、甲斐支配を盤石にしていました。


■信玄公が政を執り、軍略を練った場所
館の中心には「御殿」があり、ここで信玄公は毎日の政務を行い、
家臣団との軍議を重ね、戦の出陣を決めていきました。
川中島合戦、駿河侵攻、西上作戦――
これらの大局的な判断も、すべてこの地から発信されました。
要害山城で生まれた信玄が、
成人し、当主となり、国をまとめ、戦国屈指の名将として歩み出した場所。
その“リアルな生活圏”が、この館跡に息づいています。
■武田神社としての現在の姿
大正時代に武田神社として創建されて以降、
信玄公を祀る神社として広く親しまれています。
境内は凛とした空気が流れ、
参道、社殿、宝物殿など見どころも多く、
歴史ファンのみならず観光客にも人気のスポットです。
特に宝物殿では、
・信玄公の軍扇
・武具
・武田家ゆかりの品々
など、戦国ファン必見の展示が並びます。


■要害山城と並べて歩くと、武田家の全体像が見える
要害山城が“有事の砦”なら、
武田氏館は“日常の中枢・国家の心臓部”。
二つの城跡を同じ日に歩くと、
武田家の防衛と政治のシステムが立体的に浮かび上がります。
山城の厳しさと、館跡の静けさ。
両者がつながったとき、甲斐武田家の歴史が一気に鮮明になります。
■甲府三城巡りの中間地点として
要害山城で汗を流し、
武田氏館で歴史の核心に触れ、
次に向かうのは甲府城。
一日で三城をめぐると、
「甲斐の国の成り立ち」がスッとつながっていきます。
武田氏館は、その流れの中でも“最も武田家の息づかいが残る場所”。
信玄公の生きた時代が静かに、確かに感じられました。
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