日本100名城 吉野ケ里・佐賀城を訪ねて
博多から佐賀へ ―― JR九州ネットきっぷで城旅スタート
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移動のストレスが少ないのは、城巡りの旅において大きな利点だ。
今回は、吉野ケ里と佐賀城、日本100名城二城を巡る一日旅となった。


二度目の吉野ケ里遺跡 ―― 日本の城の原点に立つ
吉野ケ里遺跡を訪れるのは、今回で二度目。
それでも、この場所に立つと毎回、特別な感覚を覚える。
吉野ケ里は、弥生時代後期を中心とする大規模な環壕集落跡であり、
日本100名城の中でも、最も時代を遡る「城」と位置づけられている。
高い石垣も天守もない。
しかし、幾重にも巡らされた環濠、柵と門、物見櫓の配置からは、
明確な防御の思想が読み取れる。


■防御の知恵 ―― 環濠・柵・物見櫓
集落全体を囲む環濠は、敵の侵入を防ぐための最前線。
要所に設けられた出入口と柵、
高台に立つ物見櫓は、周囲を監視するための重要な施設だった。
集落を守るために、地形と構造を最大限に活かす――
その考え方は、後の山城や平山城へと、確実につながっていく。


■王の居場所と祈りの空間
吉野ケ里の中心部には、
他の住居とは明らかに異なる主祭殿や大型建物群が復元されている。
ここは生活の場ではなく、
政治と祭祀が行われた特別な空間と考えられている場所だ。
武力だけでなく、
祈りや権威によって人々を束ねていた時代の空気が、今も感じられる。


■戦いを想定した北内郭
防御性が最も高いとされるのが、北内郭エリア。
濠の幅や深さ、櫓の配置は、他の区画とは明らかに異なる。
弥生時代は、決して牧歌的な時代ではない。
争いがあり、その中で「守るための仕組み」が洗練されていった。
吉野ケ里は、まさに城の原風景だと実感させられる。


初訪問・佐賀城 ―― 御殿を中心とした平城
続いて向かったのは、今回が初訪問となる 佐賀城。
佐賀城は、天守を象徴とする城ではなく、
本丸御殿を中心に据えた平城として発展した城である。
現在の佐賀城の最大の見どころは、
全国的にも珍しい規模で復元された本丸御殿だ。


■再建された本丸御殿 ―― 藩政の中枢
畳敷きの広大な空間は、質素ながらも品格があり、
ここが藩政の中心であったことを強く感じさせる。
佐賀藩が近代技術を取り入れ、
政治と改革を進めていった現場が、この御殿だった。


■佐賀戦争の痕跡 ―― 鯱の門に残る弾痕
城内で特に印象に残ったのが、鯱(しゃち)の門。
この門には、佐賀戦争(1874年)で受けた弾痕跡が、今も残されている。
城が戦場となる時代は、すでに終わりつつあった。
その現実を、木材に刻まれた弾痕が静かに物語っている。


■人が立ち寄らない天守台
佐賀城には、確かに天守台が存在する。
しかし現在は、導線が十分に確保されておらず、
訪れる人の少ない場所となっている。
観光的な華やかさとは無縁だが、
その静けさこそが、
佐賀城が「政の城」であったことを雄弁に語っているように感じられた。


■技術と立場のはざまで ―― 佐賀藩と会津藩
佐賀藩は、アームストロング砲をはじめとする重火器を備え、
結果として、わが敬愛する会津藩を苦しめる側に立つこととなった。
一方で、鍋島氏は必ずしも戦に積極的だったわけではない、
とも伝えられている。
時代と立場が、人を選ばせた結果だったのだろう。


佐賀泊 ―― 旅の余韻
歴史と向き合った一日の終わりは、佐賀で一泊。吉野ケ里から佐賀城へ、
日本の城の歴史を一気に辿る、密度の濃い一日となった。
日本100名城の旅は、訪れた数以上に、
自分がどの歴史に心を動かされるかを知る旅でもある。
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