今週末は山の会のオフや仲間との山行が入っていない。朝早く起きれたら、六甲山の魚屋道(阪神深江から有馬)でも久しぶりに歩いてみようと思っていたのだが、目覚めたのが午前6時前「こりゃダメだと魚屋道はあきらめることにした。6時だったら早いと思われる方も多いと思うが、単独で行動する場合は超早朝派なのだ。
魚屋道はあきらめたが、散歩程度に登れる山にでも行きたいと思うのだが、手ごろな山が思いつかない。有馬富士・羽束山など地元の登り慣れた山に行く気分ではない。そこでふと思いついたのが、山仲間が数週間前に登ってた三草山。『ふるさと兵庫50山』が100山に増えた時に新たにに『ふるさと兵庫100山』に選定された山である。北摂に同名の三草山があるのだが、こちらも同時期に『ふるさと兵庫100山』に選定された。どちらの三草山も源平合戦にまつわる話が伝わっている。
三草山に行くことに決めたが、三草登山口と鹿野登山口どちらから登るかだ。鹿野登山口の方が我が家からは近いのだが三草登山口を起点に三草コースで登り、鹿野コースで下山するルートを選択した。
登山口から三草コース方面に歩き出す。しばらく林道を歩き山道に入る。見晴らしの良い道がほぼ一直線に続いている。岩場の箇所が多く傾斜のきつい岩場には鎖の手すりが設置されている。後ろを振り返ると昭和池がコバルトブルーに輝いている。
三草コースは山頂までに4つのピークを越える。この三草山は背の高い樹林がなく陽射しを浴びながら登っていく。気温も高めで無風状態でもって晴天の陽射しの中の登りは暑い!一つ目のピークに登り、先を見ると山肌にくっきりと一直線に登山道が見えている。ということは次のピークまでも樹林で日陰になるところはないのか。2つ目、3つ目とピークを過ぎ、そして最後のピークを通過し山頂に到着。結局山頂に到着するまで日陰はなかった。真夏のピーカンの日には絶対に登りたくない山だ。
二等三角点の置かれた360度のパノラマが広がる山頂は三草山城址となっている。三草山城は、一ノ谷の戦いの前哨戦とも言える三草山の古戦場跡でもあり、南北朝時代には赤松氏が城を築き、嘉吉の乱で赤松氏が山名氏とこの地を巡って戦ったそうだ。
山頂で景色を見ながら、遅めのお昼と食後のコーヒーをいただく。単独山行としては珍しく45分とゆっくりのランチタイムであった。
下山は鹿野コースである。下り始めてすぐに畑コースとの分岐点となる。鹿野コースは雑木に囲まれた箇所が多く見晴らしはイマイチ。しかし雑木といってもちょっと高めの垣根のようなもので、やはり日よけにはなっていない。こちらのコースもいくつかのアップダウンを繰り返しながら下っていく。
突如登山道に石の鳥居が現れる。くぐり抜けて前方から見ると『三草山神社』の額が掛かっていた。この鳥居を越えてしばらく行ったところに標識がある。この標識を見落とすと鹿野登山口に下ってしまうので注意が必要。ほぼUターンに近い状態で道がついているのでそちらに向かう。やがて昭和池のほとりに下り立ち。昭和池沿いの道を登ってきた三草山や稜線を眺めながら歩く。
昭和池のほとりを堰堤まで戻れば三草登山口駐車場である。ランチタイムもあわせて2時間45分の行程。アップダウンに岩場、池沿いの道と楽しめる山でした。逆コースで登ってみるのも楽しそうである。ただし夏場は遠慮しておこう
■三草山の戦い
三草山の戦い(みくさやまのたたかい)は、治承8年/寿永3年2月5日(1184年3月18日)播磨国の三草山における源義経軍と平資盛軍による戦い。平安時代末期の内乱である治承・寿永の乱の合戦の一つで、一ノ谷の戦いの前哨戦である。
寿永3年(1184年)正月末、平氏追討の宣旨を受けた源範頼・源義経率いる源氏軍は平氏が拠点とする福原を目指して出陣した。2月5日に摂津国に入ると、東西から挟み撃ちにするために軍勢を二手に分け、大手(福原の東方)を攻める範頼は西国街道を、搦手(福原の西方)を攻める義経は丹波路を進み、2月7日が矢合わせ(攻撃決行)となった。
一ノ谷を目指して丹波路を進軍する義経を迎え撃つため、平氏方の平資盛・平有盛・平師盛らが播磨国三草山の西に布陣する。義経は東方に陣をとり、源平両軍が三里ほどの至近距離で対峙する事となる。
丹波との国境に近い三草山は、交通の要所であると同時に険阻な山と深い谷に囲まれた軍事的要衡の地であった。平氏の荘園の地であったと見られ、平氏に地の利があるこの場所が防衛拠点として選ばれたと見られる。
『平家物語』「三草合戦」の段によると、義経は土肥実平を呼び、今晩夜討ちをかけるか、明日の合戦とすべきかを問う。田代冠者信綱が進み出て「明日の合戦となれば、平家の軍勢は増すので、数の上で有利な今、夜討ちをかけるべきです」と進言。義経はそれを受け入れ、夜討ちを決行するべく民家に火を放って進撃した。
夜討ちを予想していなかった平氏軍は武具を解いて休息しており、源氏軍の夜討ちにあわてふためいて敗走し、あっけなく源氏軍の勝利となった。
資盛・有盛は高砂より海路で屋島に渡り、師盛はかろうじて福原の平氏本隊へ戻っている。
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