新選組ゆかりの地 島原(日本最古の花街)

六条坊門(現在の東本願寺の北側)に移され、六条三筋町として栄えた。その後、京の町の発展に伴い、寛永18年(1641)、市街地の西に当たる当時の朱雀野に移った。正式名称は西新屋敷と呼んだが、その急な移転騒動が、時あたかも九州島原の乱の直後であったため、それになぞらえて島原と称されるようになった。  島原の傾城(遊宴のもてなしを公認された女性)の最高位である太夫の名称は、慶長年間、四条河原で六条三筋町の傾域が女歌舞伎を催したとき、優れた傾域を「太夫」と呼んだことが始まりとされている。太夫道中は置屋から揚屋へ練り歩く様子をいう。  また、江戸時代の島原は単に遊宴にとどまらず詩歌連俳等の文芸が盛んで、中でも俳諧は島原俳壇が形成されるほど活況を呈していた。

■新選組と島原

江戸時代に繁栄した旧花街・島原。勤王・佐幕を問わず諸藩の藩士や、徒歩15分ほどの壬生寺界隈に屯所を置いていた新選組も足繫く訪れていた場所であり、今でも各所にその足跡が残されています。現存する唯一の揚屋建築の遺構として重要文化財の指定を受けている角屋では、新選組がつけたものと伝わる刀傷が柱に残っています。また、現在も置屋として営業を続ける輪違屋には、近藤勇が漢詩を書いた屏風が残されています。