三木合戦史跡を巡る(兵庫県三木市)

■三木合戦
 1578年(天正6年)~1580年(天正8年)、三木城(兵庫県三木市)を舞台に、織田方の羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と、毛利方の別所長治が戦った合戦です。秀吉軍は、難攻不落の三木城を「兵糧攻め」で攻撃。長期籠城の末、兵糧が尽きた別所長治は三木城を開城。秀吉軍が勝利。城内で多数の餓死者を出したこの戦いは、「三木の干殺し」(みきのひごろし)とも言われています。兵庫県三木市の三木合戦史跡を巡ってみました。

■竹中半兵衛の墓(平井山麓)
 竹中半兵衛重治は美濃(岐阜県)出身の軍師で、秀吉の片腕として活躍した。三木城攻防戦の最中、平井山の陣中で病死した。本陣のあった山に続いたぶどう畑のまん中に、白い練り塀に囲まれて墓がある。

■秀吉本陣跡
羽柴秀吉は、籠城作戦に入った別所長治の三木城を攻略するため、周囲の山に包囲網を張り、ここ平井山に本陣を置きました。干殺し(兵糧攻め)と呼ばれる戦法で、天正六年八月から同八年一月までの秀吉にとって最も長い戦さでした。この間陣中では、六年十月廿五日、秀吉最初の茶会が開かれ、七年六月十三日には、名軍師竹中半兵衛が病歿しております。

■(伝)竹中半兵衛の陣所
 竹中半兵衛の三木合戦時の陣屋跡です。秀吉本陣の北側守備を担っていました。南西に三木城を望みます。もともと病弱だった半兵衛は、三木合戦の最中(天正7年6月)陣中でなくなりました。36歳でした。秀吉は遺体にとりすがり、人前もはばからず泣きくずれたと言われております。。半兵衛は、「陣中で死ぬ事こそ武士の本望」と言い、闘病の中、戦場に立ち続けたと言われています。

■竹中半兵衛の墓
 三木には竹中半兵衛の墓としてもう1つ伝わる場所がある。栄運寺というお寺の裏山にある。栄運寺に向かう道を進み、栄運寺のすぐ手前山側が半兵衛墓所への登り口です。「竹中半兵衛の墓」という看板があります。しばらく登り分岐(標識あり)を右に入れば墓所です。

■三木城跡(三木市公式WEBより引用)
美嚢川左岸の三木台地北端に位置する。15世紀末頃に三木別所氏の初代当主則治(のりはる)によって築かれたと考えられる。
 天正6年(1578)から同8年、東播磨最大の勢力を誇る三木城主別所長治と織田信長の部将羽柴(後の豊臣)秀吉の間で起こった三木合戦では、「三木の干し殺し」と呼ばれる兵糧攻めが行われた。
 三木合戦後も三木が播磨における京都や大坂からの入口として重要な場所であったため、杉原家次、前野長康、中川秀政・秀成が城主となり、その後、豊臣家の直轄地となった。慶長5年(1600)池田輝政の姫路入封に伴い、姫路城の支城となった三木城には、家老の伊木忠次が入城したが、元和元年(1615)の一国一城令によって廃城となった。

 構造は本丸・二の丸を中心部とし、新城・鷹尾山城・宮ノ上要害等で構成され、各曲輪が並立する。規模は東西約600メートル、南北約700メートルを測り、南側は山と谷、他三方を崖に囲まれている。南側に鷹尾山城と宮ノ上要害を配置し、背後の防御性を高めている。石垣は確認できず、土造りの城としては、戦国期における播磨屈指の大規模城郭といえる。
 現在、本丸には伝天守台と井戸が残り、二の丸は資料館等が建ち並んでいる。新城は昭和30年頃まで土塁や本丸側に数段の帯曲輪が残っていたが、すでに宅地化されている。鷹尾山城は東西に細長い尾根上に遺構が展開していたが、西端のみが残存し、周囲に土塁・空堀が巡っている。宮ノ上要害は浄水場等の建設により遺構は消滅している。
 発掘調査により、本丸・二の丸では、瓦葺き礎石建物が存在していたこと、内部が堀で区画されていたこと、本丸の伝天守台は堀が埋まったのちに造成されたことが明らかになっている。二の丸では、貯蔵庫とみられる16個分の埋められた備前焼大甕群が検出された。本丸・二の丸ともに瓦が数多く出土している。中心時期は戦国時代後半とみられる。    
  なお、城下関連の遺構としては、三木城西麓に位置する本町滑原(ほんまちなめら)遺跡において、有馬道に沿って検出長約80メートルの石列が確認されており、家臣団屋敷群の存在が指摘できる。

 今回はバイク(125CCスクーター)で巡りました。それぞれの場所は離れているので、足に陣がある方以外徒歩で巡ることはお勧めできません。秀吉本陣跡は軽い登山となりますので、滑りにくい靴底の歩きやすいシューズにしましょう。