諫早城跡と周辺神社(長崎県諫早市)
長崎は年に1~2回訪れるのだが、諫早を見て回ったことがない。島原へ行くのに島原鉄道利用で諫早駅を利用したことはあるが駅から出たことは一度もなかった。今回も長崎市内が目的地であるが、長崎空港からバスで諫早に出て観光してみることにした。とは言ってもゆっくりと回る時間があるわけではなく第一の目的は諫早城跡(高城)と周辺の神社参拝。
諫早駅から諫早城跡がある諫早公園へ向かう。諫早公園の手前にある諫早神社へ。まずは今回の旅の安全を祈願する。諫早神社は九州全体を守護する神社「四面宮」として、奈良時代、西暦728年に創建。諫早総守護の氏神様として、歴代領主から信仰されてきました。
ご祭神は、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、大己貴大神(おおなむちおおかみ)、少彦名大神(すくなひこなおおかみ)、配祭の神々(猿田彦大神・八幡神社・天満宮・御霊宮・稲荷神社・太子)を合祀している。
ご神木は県天然記念物指定のクスノキ。アマビエ木像や、豊富な御朱印やお守りなどで人気を集めています。個人的にはシンプルイズベストってことで通常御朱印をもらうのが私の習わしです。
諫早城跡を中心に整備された諫早公園に到着。まず目に入ってくるのが公園近くを流れる本明川に架けられていた眼鏡橋(国の重要文化財)だ。1960年(昭和35年)園内の池に移築されてたとのこと。また公園内の城山(標高50m)の樹叢は、諫早市城山暖地性樹叢の名称で国の天然記念物に指定されている。
諫早城は西郷尚善によって築かれた城です。西郷純堯の代に、豊臣秀吉が発令した九州征伐に従わず所領を没収され、諫早の地は龍造寺家晴に与えられました。家晴の子・直孝は名を諫早氏に改め、以降幕末まで龍造寺四家のひとつとしてつづきました。諫早氏は代々諫早城を居城として維持していましたが、5代・茂門のときに財政難によって城が維持できなくなったため、東麓に諫早陣屋を構え廃城となりました。(攻城団ホームページより抜粋)
諫早公園に隣接する高城神社に参拝。高城神社は明治15年に建設された比較的に新しい神社で、諫早家初代竜造寺家晴公が祭られています。昭和32年の諫早大水害により被害を受けたため現在の場所に再築されたとのこと。
最後に御館山稲荷神社に参拝。
御館山は、西暦701年~703年頃、行基菩薩が九州を訪れた際に五智光山として開基されました。平安時代末期に、源為朝が館を築いて武術の訓練をおこなった故事から、御館山と呼ばれるようになったとされています。山中には霊塚が多数散在しており、稲荷信仰の霊地として民衆から崇拝されていました。
1750年に諫早藩で百姓一揆が起こり、領地を没収されて貧困に苦しむ民衆は、領地を戻してもらうよう各地の神社に祈願しました。領地の返還や領内の安泰を願い、京都伏見稲荷の分霊を迎えて祀ったのが、正林の大乗院です。その後、没収された領地はすべて返還され、民衆は稲荷神社のおかげとして深い信仰心をもって祀るようになりました。
1805年に明治政府の社寺分祀の令により、稲荷社を大乗院から御館山に移しました。そのときに藤森稲荷神社と合わせて祀ったのが、今の御館山稲荷神社です。ご祭神は、宇迦之御霊神(うかのみたまのかみ)、猿田彦神(さるたひこのかみ)、大宮売神(おおみやめのかみ)です。
麓から山頂付近に鎮座する朱色の神殿が見えます。あそこまで登るのかと一瞬躊躇しましたが、せっかくここまで来て登らないなんてことはあり得ないので登ることに。思ったより時間かからず登れました。
参拝を済ませ、御朱印をいただき下山。諫早駅まで戻ってJRで長崎までと考えていたのですが、諫早駅に戻る途中で長崎行の高速バス停があり、時刻表を見ると10分弱の待ち時間だったので、駅まで戻るのに10分はかかるし、電車の待ち時間を考え、バスで長崎市内に向かうことに。
初めての諫早半日観光を終え、長崎市内に入ったのであります。
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