【伝説の智将・楠木正成の城へ】千早城址を歩く

大阪・南河内の山中に、たった数百の兵で二万の鎌倉幕府軍を退けた“最強の山城”があるのをご存じですか?その名も「千早城」。楠木正成が築いた伝説の城であり、日本100名城にも選定されています。

今回は、**南海電鉄の「金剛山きっぷ」**を利用して、歴史ロマンあふれる千早城址をめぐりをご紹介します。

◆ 登城ルート:派出所前の登城口からスタート

登城口は、金剛山登山口バス停すぐ、派出所前の登城口から。ここからいよいよ千早城への攻城が始まります。長い石段(約560段あるそうです)を登るごとに、楠木軍がこの山を守り抜いた激闘の跡が、空気ににじんでいるように感じます。

◆ 曲輪をめぐりながら、千早神社へ

登山道の入り口から石段を登りきると、まず現れるのが四の丸跡。山の斜面を利用した段状の郭で、現在は樹々に囲まれ静けさが漂っていますが、かつては防御の最前線として、敵の接近をいち早く察知する重要な場所でした。

四の丸から進んだ先にある階段を上がると三の丸跡
そして、ここには目を引くものがひとつ――「千早城址」と刻まれた石柱が堂々と建っています。
ここが千早城の遺構であることを静かに、しかし確かに伝えるシンボルです。立ち止まって見上げれば、正成公がここを築いた意味が、少しわかる気がしてきます。

その先、さらに登れば二の丸跡に到着します。現在は千早神社が鎮座しており、整えられた参道と清らかな境内が訪れる人を迎えます。二ノ丸は、城の中核を守る重要な拠点であり、ここに社が祀られたのは正成公への尊崇が今もこの地に根づいている証。

◆ 一段高くにある「本丸跡」は、いま立ち入り禁止の聖域

千早神社に参拝したら、ぜひ見上げてほしいのが、その背後に一段高くそびえる曲輪跡。ここが本丸跡です。現在は立ち入り禁止となっており、近くから望むのみですが、かつては正成が指揮を執った中心拠点でした。

1333年の「千早城の戦い」では、ここから敵の動きを見下ろし、鎧を着せた藁人形を谷へ落とす奇策などを駆使しながら、数百の兵で幕府軍を翻弄。徹底抗戦の末、ついに撤退に追い込んだのです。

この本丸跡の周辺には今も静寂が漂い、智将・正成の息づかいが聞こえてきそうな空間です。

◆ 金剛山登山道に合流、そして五輪塔へ――伝承が交差する「首塚」

千早神社の右手から伸びる登山道を進み、小さな休憩所を経て山道を下ると、金剛山の主要登山道に合流します。この合流点から少し登ったところに、ひっそりと建てられているのが石造りの五輪塔です。

この五輪塔については、文献によって異なる伝承が残されています。
1801年の『河内名所図会』や、1849年の『南木誌』には、楠木正成の子・正儀の墓として記されています。しかし、地元・千早村では古くから、これを**楠木正成公の「首塚」**として伝えてきました。

正成は湊川の戦いで戦死し、首は京都に送られたとも、仲間が持ち帰ってこの地に葬ったともいわれています。真偽のほどは定かではありませんが、この場所が楠木一族と深く関わる“聖地”であることに疑いはありません。

静かに佇む五輪塔の前に立つと、幾重にも重なる時の流れと、忠義の物語が胸に迫ります。
ここはただの登山途中のスポットではなく、歴史と伝承が交差する、深い意味を持つ場所なのです。

◆ 山の豆腐屋「まつまさ」でスタンプ&御城印

下山後は、登山口そばにある「山の豆腐 まつまさ」へ。ここでは日本100名城のスタンプと、立派な御城印が手に入ります。旅の記念としても、御城印帳の一ページとしても嬉しいスポット。

◆ まとめ:千早城は、歴史の教科書のその先へ

山に築かれた千早城は、自然と戦術が一体となった“動かぬ砦”。
たった数百の兵で、圧倒的な大軍を退けた楠木正成の知略と信念は、今もこの地に息づいています。

観光気分の登山にも、本格的な歴史探訪にもぴったり。
あなたも、時を超えて語り継がれるこの山城に、足を運んでみませんか?

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