雲行きが怪しい中、武田尾駅をスタート。廃線線跡に入りトンネルを2つ通り抜けると左手が桜の園である。ここで廃線跡から別れ桜の園の桜の道を登っていく。雨がポツポツ落ちてきた。この先の東屋で、とりあえずザックカバーを付けよとしていたら雨脚が激しくなってきた。しばらく様子を見たが弱まる気配がないので、仕方なくレインウェアを着込み出発。
桜の園から離れ、大峰山山頂に向かって登っていく。この季節にレインウェアを着ての登りは辛い。暑くて汗がダラダラ流れる。東屋から引き返せばよかったなどと軟弱な事を考えてしまう。
汗だくになりながら大峰山山頂に到着。樹林に囲まれた山頂で展望は利かない。山頂から中山方面に下る。下り始めてすぐの三叉路は左に道を取る。しばらく進んだところの十字路(左が送電鉄塔)は直進。後は道なりに下っていくと峠風の三叉路にぶち当たる。ここは右に行き、すぐに左に入る。ちなみに右に行くと大宝塚ゴルフ場から十万辻バス停方面に出る。緩やかな道がしばらく続いた後、道は激下りとなる。最後に3mほどの岩場をくだると車道に出る。
車道をはさんだ真向かいに門扉がある。その門扉の右側の道を入っていく。左手に砂防ダムを見ながら橋を渡ると中山連山への登りとなる。ゴルフ場の脇を通りながら登っていくと左に登っている道がある三叉路がある。中山寺奥之院直進の標識があるが、ここは左に入る。直進は、中山最高峰を捲く道なので注意。中山最高峰を踏まなくてもいいのであれば直進である。赤土の馬の背っぽいやせ尾根を過ぎると中山最高峰である。
中山最高峰からフェンス沿いに下っていくと分岐がある。中山寺奥之院に立ち寄るのであれば右である。小生は立ち寄るので右に道を取る。やがて鳥居が見えてくると中山寺奥之院である。
中山連山に登り始めた頃から雨も弱くなり、奥之院到着時には雨が完全にあがったのでレインウェアを脱ぐ。見も軽くなり、一気に中山寺へと下る。中山寺は西国三十三所の第二十四番霊場なのでお参りを済ませ納経所で御朱印を頂いた後、JR中山寺駅まで戻り、電車で家路に着いた。
◆紫雲山 中山寺
北摂の地に、紫の雲たなびくといわれる中山寺は、聖徳太子の創建によるとつたえられる、わが国最初の観音霊場です。
御本尊は十一面観世音菩薩で、古くより安産・求子の観音として数多くの婦人より篤く信仰されてきました。御本尊のお姿はインドの勝鬘夫人(インド中古のアユジャ国の王妃で、仏法に帰依し、釈尊の教えをことごとく悟得された女性)が女人救済の悲願をこめて、自ら等身像を彫刻されたことに故実する尊像と伝えられています。すべての人の正しい願いを聞き入れて、世の憂いや苦しみを取り除き、心の畏れるところのない境地を与えられるご本尊本来の願いを、その両御手にあらわされているのも、当山にみられる特別なお姿であり、平安初期の他に類のないすぐれた尊像のゆえんです。c
また代々皇室の崇信もあつく、安産祈願本邦随一の霊場として、源頼朝をはじめ武家・庶民にも深く信仰されていました。ことに、豊臣秀吉は当山に祈願して秀頼を授かり、秀吉亡き後、秀頼は片桐且元に命じ、伽藍再建をしました。これが現在の伽藍です。
草創以来、長い歴史の中で当山は多くの物語でかざられ、世に名高い謡曲「満仲」や「菅原伝授手習鑑」は、平安中期に多田源氏満仲の信護をうけた時代の、当山にまつわる美女丸・幸寿丸の哀話から創作されたものです。
満仲より8代目の多田城主は源 行綱です。彼の妻は不信心による悪態をご本尊が鐘の緒をもって戒められたと伝えられており、その鐘の緒はいまでも保存されています。以来中山寺の「鐘の緒」といわれて、女性の大役である出産の無事安泰を守る「安産の腹帯」として、数百年たえることのない日夜の祈念をいたしております。
ことに幕末には、中山一位局を当山の鐘の緒をうけ明治天皇を御平産されてより、明治天皇勅願所として霊徳を高め、「安産の寺」としても名高く、安産を祈る人々が全国から腹帯を授かりにまいられます。
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