はじめよう西国三十三所巡礼 その1

草創1300年 西国三十三所巡礼の旅に出かけよう!

観世音菩薩を祀る三十三のお寺を巡る西国三十三所巡礼。堅苦しいことは考えず、観光やトレッキングを兼ねてお参りしてみませんか。

まずは、お近くのお寺を訪ねてみてください。

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1.西国三十三所巡礼とは

・千三百年の歴史を持つ日本最古の巡礼で、三十三か所の観音霊場を参拝します。

北端は京都府宮津市、南端は和歌山県那智勝浦町、東端は岐阜県揖斐川町、西端は兵庫県姫路市と近畿2府4県と岐阜県に点在する寺院(札所)の観世音菩薩(観音)様を参拝します。三十三所には番号が付されており、第〇〇番札所〇〇寺とよんだりします。参拝したら納経所で、納経帳・御軸・笈摺(おいづる)に御朱印をいただきます。

・何故三十三か所?

「三十三」とは、観音経に説かれる、観音菩薩が衆生を救うとき三十三の姿に変化するという信仰に由来し、その功徳に与るために三十三の霊場を巡拝することを意味しており、西国三十三所の観音菩薩様を巡礼参拝することにより、現世で犯したあらゆる罪業が消滅し、極楽往生できるとされています。

・創始者は徳上上人、中興の祖は花山法皇

三十三所巡礼の起源については、中山寺の縁起である『中山寺来由記』、華厳寺(三十三番札所)の縁起である『谷汲山根元由来記』などに大略次のように記されています。養老2年(718年)、大和国の長谷寺の開基である徳道上人病のため仮死状態になった時、冥土の入口で出会った閻魔大王から、生前の罪業によって地獄へ送られる者があまりにも多いことから、三十三箇所の観音霊場を巡れば滅罪の功徳があるので、観音霊場三十三所を広めるよう命じられ、起請文と三十三の宝印を授かり現生に戻された。現生に戻った徳上上人は、この宝印に従って三十三か所の霊場を定めたとされる。上人と弟子たちはこの三十三所巡礼を人々に説くが世間の信用が得られずあまり普及しなかったため、宝印を摂津国の中山寺の石櫃に納め機が熟すのを待つこととしました。。

約270年後、花山法皇が紀州国の那智山で参籠していた折、熊野権現が姿を現し、徳道上人が定めた三十三の観音霊場を再興するように託宣を授けた。そして中山寺で宝印を探し出し、播磨国書写山圓教寺の性空上人の勧めにより、河内国石川寺(叡福寺)の仏眼上人を先達として三十三所霊場を巡礼したことから、やがて人々に広まっていったといいます(中山寺の弁光上人を伴ったとする縁起もある)。仏眼が笈摺・納め札などの巡礼方式を定め、花山院が各寺院の御詠歌を作ったとされ、現在の三十三所巡礼がここに定められたということです。

・宝印が極楽浄土への通行手形

西国三十三所すべて参拝すると満願(結願)となります。西国三十三所巡礼の参拝順序は特に決まりはありません。必ずしも第一番札所から番号順に巡らなくてもかまいません。ご自宅の近くの札所から始めてもかまいません。ただし第三十三番札所華厳寺は一番最後にお参りしましょう。満願(結願)すると第三十三番札所華厳寺の笈摺堂に巡礼用品を納める習わしがありますが、持ち帰って、巡礼者がなくなった時にその笈摺を着せて納棺し納経帳も一緒にお棺に入れる習わしもあります。御朱印(宝印)が全てそろった御朱印帳は極楽浄土への通行手形、笈摺はその際の旅装束とされ、冥府で極楽浄土へ導かれると古くから言い伝えられています。