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参拝日:2009年7月20日(月)
第二十四番札所 紫雲山 中山寺
御 詠 歌
野をもすぎ 里をもゆきて中山の 寺へ参るは後の世のため
御本尊
十一面観世音菩薩
宗 派
真言宗中山派(大本山)
開 基
聖徳太子
開創年
推古天皇時代(593-628年)
所在地
兵庫県宝塚市中山寺2丁目11-1   TEL:0797-87-0024
拝観料
入山無料
 URL







西国三十三霊場 御朱印・本尊御影・梵字本尊

 雲行きが怪しい中、武田尾駅をスタート。廃線線跡に入りトンネルを2つ通り抜けると左手が桜の園である。ここで廃線跡から別れ桜の園の桜の道を登っていく。雨がポツポツ落ちてきた。この先の東屋で、とりあえずザックカバーを付けよとしていたら雨脚が激しくなってきた。しばらく様子を見たが弱まる気配がないので、仕方なくレインウェアを着込み出発。

 桜の園から離れ、大峰山山頂に向かって登っていく。この季節にレインウェアを着ての登りは辛い。暑くて汗がダラダラ流れる。東屋から引き返せばよかったなどと軟弱な事を考えてしまう。

 汗だくになりながら大峰山山頂に到着。樹林に囲まれた山頂で展望は利かない。山頂から中山方面に下る。下り始めてすぐの三叉路は左に道を取る。しばらく進んだところの十字路(左が送電鉄塔)は直進。後は道なりに下っていくと峠風の三叉路にぶち当たる。ここは右に行き、すぐに左に入る。ちなみに右に行くと大宝塚ゴルフ場から十万辻バス停方面に出る。緩やかな道がしばらく続いた後、道は激下りとなる。最後に3mほどの岩場をくだると車道に出る。

 車道をはさんだ真向かいに門扉がある。その門扉の右側の道を入っていく。左手に砂防ダムを見ながら橋を渡ると中山連山への登りとなる。ゴルフ場の脇を通りながら登っていくと左に登っている道がある三叉路がある。中山寺奥之院直進の標識があるが、ここは左に入る。直進は、中山最高峰を捲く道なので注意。中山最高峰を踏まなくてもいいのであれば直進である。赤土の馬の背っぽいやせ尾根を過ぎると中山最高峰である。

中山最高峰からフェンス沿いに下っていくと分岐がある。中山寺奥之院に立ち寄るのであれば右である。小生は立ち寄るので右に道を取る。やがて鳥居が見えてくると中山寺奥之院である。

 中山連山に登り始めた頃から雨も弱くなり、奥之院到着時には雨が完全にあがったのでレインウェアを脱ぐ。見も軽くなり、一気に中山寺へと下る。中山寺は西国三十三所の第二十四番霊場なのでお参りを済ませ納経所で御朱印を頂いた後、JR中山寺駅まで戻り、電車で家路に着いた。


◆紫雲山 中山寺
  北摂の地に、紫の雲たなびくといわれる中山寺は、聖徳太子の創建によるとつたえられる、わが国最初の観音霊場です。

 御本尊は十一面観世音菩薩で、古くより安産・求子の観音として数多くの婦人より篤く信仰されてきました。御本尊のお姿はインドの勝鬘夫人(インド中古のアユジャ国の王妃で、仏法に帰依し、釈尊の教えをことごとく悟得された女性)が女人救済の悲願をこめて、自ら等身像を彫刻されたことに故実する尊像と伝えられています。すべての人の正しい願いを聞き入れて、世の憂いや苦しみを取り除き、心の畏れるところのない境地を与えられるご本尊本来の願いを、その両御手にあらわされているのも、当山にみられる特別なお姿であり、平安初期の他に類のないすぐれた尊像のゆえんです。c
 また代々皇室の崇信もあつく、安産祈願本邦随一の霊場として、源頼朝をはじめ武家・庶民にも深く信仰されていました。ことに、豊臣秀吉は当山に祈願して秀頼を授かり、秀吉亡き後、秀頼は片桐且元に命じ、伽藍再建をしました。これが現在の伽藍です。

 草創以来、長い歴史の中で当山は多くの物語でかざられ、世に名高い謡曲「満仲」や「菅原伝授手習鑑」は、平安中期に多田源氏満仲の信護をうけた時代の、当山にまつわる美女丸・幸寿丸の哀話から創作されたものです。

 満仲より8代目の多田城主は源 行綱です。彼の妻は不信心による悪態をご本尊が鐘の緒をもって戒められたと伝えられており、その鐘の緒はいまでも保存されています。以来中山寺の「鐘の緒」といわれて、女性の大役である出産の無事安泰を守る「安産の腹帯」として、数百年たえることのない日夜の祈念をいたしております。

 ことに幕末には、中山一位局を当山の鐘の緒をうけ明治天皇を御平産されてより、明治天皇勅願所として霊徳を高め、「安産の寺」としても名高く、安産を祈る人々が全国から腹帯を授かりにまいられます。
登頂日
2009年7月19日(日)
天 候
曇り/晴れ
同行者
囲炉裏村メンバー3名

谷上駅⇒石楠花山⇒かわうそ池⇒穂高湖⇒摩耶山掬星台⇒摩耶史跡公園⇒行者茶屋跡⇒雷声寺⇒新神戸駅







 先週の山行時に、次回は摩耶山に登ろうと決めた。コースは、長峰山から杣谷峠を経て掬星台と裏六甲を炭が谷から石楠花山・かわうそ池・穂高湖を経て掬星台の2案。長峰山は登山口までの住宅街の急坂が暑いこの季節には辛いということで後者のコースで登ることとなった。下りは摩耶山史跡公園から行者茶屋跡を経て旧摩耶道で新神戸に下山である。

 朝8時に谷上駅に集合。早々に出発する。谷上駅から住宅街を東にしばらく進み、山道へと入る。少し先の車道を渡り、その先の阪神高速北神戸線の高架をくぐる。高架を抜けしばらく行ったところを右に道をとると炭が谷である。ここから登りが続く。途中、炭焼窯跡の横を通り谷沿いの道を登っていくと谷底の道となり傾斜も少しきつくなる。谷底の道を上り詰め、踏み板の道になれば炭が谷は終わりを告げ林道へと飛び出す。林道を右に行けば石楠花山の展望台である。

 展望台での休憩後、先ほどの林道出会い地点まで戻り、かわうそ池方面に向かう。マムシ谷・シェール道と緩やかな登りを進み、穂高湖周遊路から車道に出た。ここから車道沿いを掬星台へ向かう。途中アゴニー坂の分岐で、車道とどちらを通るかの話になったが、全員一致で車道を行くことにした。

 掬星台で昼食である。展望台j付近のテーブルが空いていたので、そこで食べることにする。 雲の合間から時々陽が射す程度で、やや強めの風が吹いていたので、暑さに悩まされることない快適なランチタイムであった。

 掬星台を後にし摩耶山史跡公園へと下る。旧天上寺の急で長い石段を下ると、旧天上寺で唯一残っている建造物である山門を通り抜け参道の階段道をひたすら下ると行者茶屋跡にでる。ここで青谷道と別れ、旧摩耶道に入る。数度のアップダウンを繰り返し進むと、雷声寺の不動明王像の脇に下り立つ。雷声寺の石段を下ると街中である。熊内八幡宮境内を経て新神戸駅に戻った。

◆参加メンバー:順不同◆
りっこさん・ようこちゃん・pekoちゃん・大将 (以上4名) 
登頂日
2009年7月12日(日)
天 候
曇り→晴れ
同行者
囲炉裏村メンバー3名

東おたふく山登山口バス停⇒東お多福山⇒雨が峠⇒六甲山最高峰⇒東六甲縦走路⇒宝塚








 JR芦屋駅から東おたふく山登山口までバスで移動。今回の待ち合わせは、そのバスの中である。同行の3名は、阪神芦屋から乗車してくる。午前8:03時間通りにバスが到着。3名と合流しバスは東おたふく山登山口に到着。

 準備を整え、東お多福山に向け出発。土樋割峠(ドビワリ峠)に向かう舗装道を進んでいくと左手に東お多福山への道標がある。道標に従い舗装道から離れ、左に道をとると流れの少ない谷川渡渉である。渡渉地点からほんの数メートル下流が砂防ダムである。この先は山道となり山頂に近づくと両側を笹に覆われた道を登る。

 目の前がやや開けると東お多福山の山頂だ。東お多福山から土樋割峠→蛇谷北山→石宝殿→東六甲のコースか雨が峠→七曲り→六甲最高峰→東六甲の2つのコース案があったが、この季節、東お多福山の草原が見どころなので後者のコースを選択。

 草原を通り抜け雨が峠・本庄橋跡・七曲りの急登りを経て一軒茶屋に到着。雨が峠でプリン、一軒茶屋でオレンジの差し入れをいただく。小休憩の後、六甲最高峰へ登る。最高峰到着時間が11時頃。昼食には、まだ少し早い時間だ。大平山で昼食をとることにし先へ進む。

 この頃から晴れ間が見え始め暑くなりそうな気配である。案の定、空は晴れ渡り陽射しが強くなったが、幸いなことに、樹林が陽を遮ってくれる東六甲縦走路に入ったので直射日光を浴びることなく、時々吹き抜ける風を受けながら歩くことができた。

 大平山で昼食。本日の昼食は家で茹でてきたソーメン。濃縮つゆと氷水をぶっ掛けいただく。やっぱ暑い日には、さっぱり喉越しさわやかな冷やしソーメンとビールだね!おつまみに魚肉ソーセージ&タン塩をいただき。食後のデザートの冷たいフルーツも最高でした。今回も色々と差し入れをいただきありがとうございました。

 ここから宝塚まで、あとひと頑張り。宝塚に着いたら冷たいビールが待っている。山道は塩尾寺で終わり、ここから宝塚まで舗装道の激下りが待っている。何度歩いても、この最後の激下りは好きになれない。陽を遮る樹木がなくなり、炎天下の中なので余計にイヤだ。あまりの暑さに、湯元台のローソンでビールを買おうかと思ったがあと少しの辛抱、珉珉はすぐそこだ。

 珉珉で早速、生ビールをオーダー。お疲れ様の乾杯をしてグビグビっと喉に流し込む。うーん、うまい!エベレストに挑みエベレストで死んだジョージ・マロリーは「なぜ山に登るのか?」の問いに「そこに山があるから(Because,it is there)」という名セリフで答えた話は有名。小生の場合は、さしずめ「下山したら冷たいビールが待っているから」ってとこでしょうか。山の上でも飲んでますが・・・。

 今回も、同行のみなさんのおかげで楽しい山行であった。御一緒していただいた仲間に感謝。また、珉珉で囲炉裏村のhちゃん・Yさん・Nさん御一行とm嬢・Jさんにお会いすることができた。

 最後に今回のルートマップは未掲載となります。GPS内のトラックログデータがPCに転送できない状態に陥ってます。原因は不明。テストで新たに記録したログは転送できるが、それ以前のものがダメ。ということで今回はルートマップなしです。


◆参加メンバー:順不同◆
papaさん
ようこちゃん
pekoちゃん
大将
(以上4名)
参拝日:2009年7月9日(木)
第二十二番札所 補陀洛山 総持寺
御 詠 歌
おしなべて おいてもわかきも総持寺の 仏の誓ひ頼まぬはなし
御本尊
千手観世音菩薩
宗 派
真言宗高野山派
開 基
中納言藤原山蔭
開創年
仁和2年 (886年)
所在地
大阪府茨木市総持寺1-6   TEL:072-622-3209
拝観料
入山無料
 URL





西国三十三霊場 御朱印・本尊御影・梵字本尊

 総持寺も先にお参りした葛井寺同様、駅から近く、阪急総持寺駅から5分ほどで到着。総持寺は以前JRの「駅からはじまるハイキング」で一度訪れている。

  お参りの後、納経所にて御朱印をいただく。納経所はエアコンの効いた建物内だったので、しばらく涼ませていただいた。

◆補陀洛山 総持寺
 補陀洛山 總持寺(ふだらくさん そうじじ)は、大阪府茨木市にある高野山真言宗の寺院で西国三十三箇所第22番。本尊は千手観音。

 承和年間(834-847年)、高房が任地の太宰府に向かう途中、息子の政朝が川に落ちてしまったが、翌朝、政朝が大きな亀の背中に乗って帰ってきたという。この亀は高房が前日に漁師から買い取り、川に放した亀であった。

 喜んだ高房は唐人に観音像を刻む香木を探してくるように頼んだ。数十年後、『高房卿の求めに応じて海を渡す』と刻まれた香木が流れ着いたが、この時、高房は既に亡くなっていた。

 中納言になっていた政朝は、香木を持って都に行き仏師を探したが優れた人が見つからなかったので、長谷寺に行き観音に祈ったところ、童子が現れた。童子はこの香木を材とし、亀に乗った千手観音を刻んだという。

 仁和2年(886年)にこの仏像を本尊として祀ったのが総持寺の創始と伝えられている。
参拝日:2009年7月9日(木)
第五番札所 紫雲山 葛井寺
御詠歌
参るより頼みをかくる葛井寺 花のうてなに 紫の雲
御本尊
十一面千手千眼観世音菩薩
宗 派
真言宗御室派
開 基
行基
開創年
神亀2年 (725年)
所在地
大阪府藤井寺市藤井寺1-16-21   TEL:072-938-0005
拝観料
入山無料
御本尊開扉日(毎月18日)のみ300円





西国三十三霊場 御朱印・本尊御影・梵字本尊

 葛井寺は街中にあるのでほとんど歩くことなく参拝可能。藤井寺というと遠いイメージがあったのだが、近鉄大阪阿倍野橋(天王寺)から、準急で10分ちょっとで到着。

 駅前の商店街を抜けると左手が葛井寺である。お参りを済ませ、御朱印をいただき第二十二番札所の総持寺へと向かう。

◆紫雲山 葛井寺
 葛井寺(ふじいでら)は、大阪府藤井寺市藤井寺一丁目にある真言宗御室派の寺院。藤井寺、剛琳寺とも称する。山号は紫雲山。本尊は千手観音。西国三十三箇所第五番札所。

 寺伝では神亀2年(725年)、聖武天皇の勅願で行基が創建し、古子山葛井寺(紫雲山金剛琳寺)の勅号を得たとされ、平安時代になって平城天皇の皇子・阿保親王が再興したとされている。近世の地誌類や再興勧進帳でも以上の寺伝を踏襲しているが、実際は百済王族の子孫である渡来人系氏族葛井(藤井)連(ふじいのむらじ)の氏寺として、8世紀中頃に創建されたと推定される。なお、平安時代初期に寺を再興したと伝えられる阿保親王の母も藤井氏である。

 中世以前の沿革については史料が乏しく、必ずしも明確でないが、本尊千手観音坐像は奈良時代の作品であり、境内から奈良時代の古瓦が出土することなどから、創建が奈良時代・8世紀頃にさかのぼることは間違いない。境内出土の瓦の1つに久安3年(1147年)の銘があり、その頃に造営事業が行われたことが推定される。平安時代後期から観音霊場として知られるようになり、西国三十三所観音霊場が成立すると、その一つに数えられるようになった。

 永長元年(1096年)には、大和国賀留の里の住人・藤井安基が、荒廃した伽藍を修理したと伝える。南北朝時代には楠木正成が陣をしいたことがあるなど、たびたび兵火にさらされた。

 当寺の伽藍は東西2つの三重塔をもつ薬師寺式伽藍配置であったが、明応2年(1493年)の兵火と永正7年(1510年)で堂塔を失い、現存する建物は近世以降の再建である。
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