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参拝日:2011年8月14日(日)
第四番札所 槙尾山 施福寺
御 詠 歌
深山路や 檜原松原 わけゆけば 巻の尾寺に 駒ぞいさめる
御本尊
十一面千手千眼観世音菩薩
宗 派
天台宗
開 基
行満上人
開創年
欽明天皇時代(539?571)
所在地
大阪府和泉市槙尾山町136 0725-92-2332
拝観料
無料





西国三十三霊場 御朱印・本尊御影・梵字本尊

◆札所データ
■創建伝承
古くは槇尾山寺と呼ばれた山岳寺院で、葛城修験系の寺院として創建されたものとみられる。南北朝時代成立の寺史である『槇尾山大縁起』(正平15年・1360年書写)によると、施福寺は欽明天皇の時代、播磨国加古郡の行満上人が創建したものであるという。

札所本尊の千手観音像については、次のような説話が伝承されている。宝亀2年(771年)のこと、当時槇尾山寺に住していた摂津国の僧・法海のもとに、一人のみすぼらしい格好をした修行僧があらわれ、夏安居(げあんご)の期間をこの寺で過ごさせてくれと頼んだ。この修行僧は客僧として槇尾山寺に置いてもらえることとなり、夏安居の期間、熱心に修行に励んだ。予定の期間が終わって寺を辞去しようとする際、客僧は帰りの旅費を乞うたが、寺僧たちはそれを拒んだ。すると、客僧は怒り出し、「何ということだ。この寺は、見かけは立派だが、真の出家者などはいないではないか。このような寺はいずれ滅び去り、悪鬼の棲家となるであろう」と叫んで、出て行ってしまった。驚いた法海が後を追うと、修行僧ははるかかなたの海上を、沈みもせずに歩いている。これを見た法海は、あの修行僧は自分らを戒めるために現れた観音の化身であったと悟り、千手観音の像を刻んで祀ったという。

縁起には役小角(役行者)、行基、空海(弘法大師)などに関わる伝承もある。役小角については、彼が自ら書写した法華経の巻々を葛城山の各所の秘密の場所に埋納し、最後に埋めたのがこの山であったことから巻尾山(槇尾山)の名が付いたとする、地名起源伝承がある。また、空海は延暦12年(793年)、20歳の時、槇尾山寺において勤操(ごんそう)を導師として出家剃髪し、沙弥戒を受けたとする伝えがある。空海の当地における出家剃髪は史実とは認めがたいが、空海が唐からの帰国後、都に戻る直前の大同4年(809年)頃、当寺に滞在した可能性は別の史料から指摘されている。縁起には、延喜16年(916年)、定額寺に定められるとするが、施福寺は度重なる火災で古記録が失われており、これも史実か否か不明である。

以上のように、施福寺の初期の歴史は伝説色が濃く、判然としないが、『日本霊異記』に言及されている「和泉国泉郡の血渟(ちぬ)の山寺」は当寺のこととされ、同書の成立した9世紀前半には著名な寺院であったことが伺われる。

■中世以降
正嘉年間(1257 - 1259年)、後白河上皇所縁の法華経と仏像が奉納されたことが縁起に見え、寺が所蔵する「法華経妙音菩薩品」(平安時代の装飾経)がそれにあたると推定されている。仁治年間(1240 - 1243年)には、仁和寺菩提院の僧・行遍によって灌頂堂(密教の師資相承の儀式を行う堂)が建立されており、中世には当寺は仁和寺の支配下にあった。

南北朝時代には南朝方の拠点の一つとなり、寺の衆徒も南朝方に与した。そのため戦火に巻き込まれることが多く、寺は衰亡した。天正9年(1581年)には織田信長と対立したことが原因で一山焼き払われるが、豊臣秀頼の援助により、慶長8年(1603年)に伽藍が復興された。

近世には徳川家の援助で栄え、その関係で寛永年間頃に真言宗から天台宗に改宗、江戸の寛永寺の末寺となった。江戸時代末期の弘化2年(1845年)の山火事で仁王門を除く伽藍を焼失。現在の本堂等はその後に再建されたものである。
(Wikipediaより引用)
登頂日
2011年8月6日(土)
天 候
晴れ
同行者
囲炉裏メンバー5名+3名(花火大会)

阪急甲陽園駅⇒神呪寺 仁王門⇒神呪寺 本堂⇒甲山⇒甲山森林公園⇒地すべり資料館⇒阪急仁川駅










 今年も『なにわ淀川花火大会』の日がやってきた。今年で23回目となる大阪の夏の風物詩といえるイベントだ。

 今年も山仲間のSさんのご好意により、Sさん所有のマンションから花火大会見物。朝から山に登り、下山後、尼崎のスーパー銭湯で汗を流し、駅前のスーパーでお寿司や惣菜、ビール等のドリンク類を購入、塚本のSさんのマンションに入り、花火大会開始まで宴会という流れは例年とおりだ。

 今年の山はどうしようかと思ったのだが、いろいろ考えるのも面倒なので、昨年とまったく同じコースにした。このコースだと時間的にもちょうどよい。

 阪急甲陽園駅に集合し、アンネのバラの公園から甲山大師道を歩き神呪寺へ。しかし毎度毎度このきつい上りの舗装道を歩くたびに「こんなとこには、よう住まんなぁ」と思ってしまう。

 神呪寺境内の展望所で休憩後、多宝塔の横から甲山への登山道に入る。九十九折の階段道を10分程登れば山頂広場に到着する。雑木に覆われ山頂は展望はほとんどないので、三角点とケルンの設置されている場所でバンダナショットを撮って甲山森林公園に下山。

 公園内のシンボルゾーンを通りレストハウス跡へ。昨年同様、ここで早めのランチタイム。

 昼食後、展望台を経て「地すべり資料館」へ下る。今年は館内見学はせず仁川駅へ戻り、阪急電車・JRと乗り継いで尼崎へ。尼崎駅近くのスーパー銭湯極楽湯へ。

 汗を流し、さっぱりしたところで、極楽湯の送迎バスで尼崎駅前まで戻り、駅前のスーパーで買出しを行い、塚本のSさんマンションへ。

 花火がはじまるまで、エアコンの効いた部屋で冷たいビールで乾杯!楽しい宴会のはじまりだ。色々な話で盛り上げっているうちに花火開始時間が近づいてくる。

 午後7時50分、花火が夜空に打ち上げられた。。マンションのバルコニーのすぐ前が打ち上げ場所。次々と打ち上げられる様々な花火に感動。今年はポケモン花火などお子様受けするような花火も打ち上げられ、あっという間に50分の花火大会はフィナーレを迎えた。

 今年も最高の特等席で感動の花火大会見学を楽しむことができた。 花火大会の模様を今年も動画撮影してみた。目では実際の花火を見ながら、チラチラッと液晶で確認しながらのデジカメ動画なので、たいした動画ではないが、よかったら見てやっていただければと思う。

 最後になったが、今年も素晴らしい観覧場所を提供していただいたSさんに感謝!ありがとうございました。


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参拝日:2011年7月30日(土)
第三十番札所 厳金山 宝厳寺
御 詠 歌
月も日も 波間に浮かぶ 竹生島 船に宝を 積むここちして
御本尊
千手千眼観世音菩薩
宗 派
真言宗豊山派
開 基
行基
開創年
神亀元(724)年
所在地
滋賀県長浜市早崎1664 0749-63-4410
拝観料
無料 ※びわ町主催「竹生島奉賛会」が400円を徴収
 URL





西国三十三霊場 御朱印・本尊御影・梵字本尊

◆札所データ
すべては、天照皇大神のお告げから
竹生島宝厳寺は、神亀元年(724年)聖武天皇が、夢枕に立った天照皇大神より「江州の湖中に小島がある。その島は弁才天の聖地であるから、寺院を建立せよ。すれば、国家泰平、五穀豊穣、万民豊楽となるであろう」というお告げを受け、僧行基を勅使としてつかわし、堂塔を開基させたのが始まりです。

行基は、早速弁才天像(当山では大弁才天と呼ぶ)を彫刻し、ご本尊として本堂に安置。翌年には、観音堂を建立し、千手観音像を安置しました。

それ以来、天皇の行幸が続き、また伝教大師、弘法大師なども来島、修業されたと伝えられています。

当山は、豊臣秀吉との関係も強く、多くの書状、多くの宝物が寄贈されています。慶長七年(1602年)には、太閤の遺命により、秀頼が豊国廟より桃山時代の代表的遺稿である観音堂や唐門などを移築させています。

全国数多くのご信者様の強い要望により廃寺は免れる
明治時代、この島は大きく変化し、当山より都久夫須麻神社(竹生島神社)が分かれました。古来、現在の神社本殿を当山は本堂とし、本尊大弁才天を安置しておりましたが、明治元年(1868年)に発布された『神仏分離令』により大津県庁より、当山を廃寺とし神社に改めよという命令が下りました。

しかしながら、全国数多くのご信者皆様の強い要望により廃寺は免れ、本堂の建物のみを神社に引き渡すこととなりました。

本堂のないままに仮安置の大弁才天でしたが、昭和17年、現在の本堂が再建されました。
(宝厳寺WEBサイトより引用)
参拝日:2011年7月30日(土)
第三十二番札所 繖山 観音正寺
御 詠 歌
あなとうと 導きたまえ観音寺 遠き国より 運ぶ歩みを
御本尊
千手千眼観世音菩薩
宗 派
天台宗(単立寺院)
開 基
聖徳太子
開創年
推古天皇13(605)年
所在地
滋賀県近江八幡市安土町石寺2 0748-46-2549
拝観料
無料
 URL





西国三十三霊場 御朱印・本尊御影・梵字本尊

◆札所データ
 近江国は、日本のほぼ中央に位置するが、その近江国でもまた中央、すなわち日本の「臍」ともいうべき要衝に位置するのが、標高432.9メートルの繖山、別名観音寺山であります。西国三十二番札所・観音正寺は、貴人にさしかざす衣蓋のようにふんわりとした美しい山容から名付けられたこの繖山の山中にひっそりと佇んでいる。

 寺伝によると、往古、聖徳太子がこの地に来臨された折節、紫雲たなびくこのお山をご覧になって「これぞ霊山なり」とおぼしめし、太子自らが千手観音の像を刻み、堂塔を建立されたのが、当寺の縁起であるという。以来、太子が近江国に創建された十二箇寺中の随一の寺院として、湖東地方に勢威を振るってきた。ところが、応仁・文明の乱に際し、近江国守護職・佐々木六角氏がこの山に居城を築いたため、寺は兵乱に罹ったり、山麓に移されたりするなど苦難の路を辿ることとなった。その後、永禄十一年(1568)、織田信長により六角氏が滅ぼされたため、慶長二年(1597)、再び山上に堂塔が営まれることとなったが、往時をしのぶべくもなかったようである。古来、万事吉祥の縁結びの祈祷道場として老若男女の尊崇を集め、四季を通じての景勝の名刹である。

(観音正寺WEBサイトより引用)
参拝日:2011年7月30日(土)
第三十一番札所 姨綺耶山 長命寺
御 詠 歌
八千年や 柳に長き 命寺運ぶ歩みの かざしなるらん
御本尊
千手十一面聖観世音菩薩三尊一体
宗 派
単立
開 基
聖徳太子
開創年
推古天皇27(619)年
所在地
滋賀県近江八幡市長命寺町157番地 0748-33-0031
拝観料
無料





西国三十三霊場 御朱印・本尊御影・梵字本尊

◆札所データ
 「八千年や柳に長き命寺、運ぶ歩みのかざしなるらん」という詠歌のとおり、「寿命長遠」の御利益があるとされています。3世紀後半から4世紀初頭の景行天皇の時代、武内宿禰(すくね)がこの山で長寿を祈ったといい、開基は聖徳太子と伝えられます。

 平安時代前期に寺院の基盤ができたと考えられており、その後、近江守護佐々木定綱(さだつな)が戦死した父の菩提を弔うために、平安時代後期に本堂をはじめ、釈迦堂・薬師堂・太子堂・護摩堂(ごまどう)・宝塔・鐘楼・仁王門などを建立しました。現在の社殿は戦国時代中期に兵火で焼失したあと再建されたものです。

 湖岸のそばから808段といわれる長い石段を登ると、諸堂の屋根の線が美しく重なりあっています。千手観音を本尊とし、聖観音・十一面観音・毘沙門天など多くの国指定の重要文化財が安置されており、その他、建造物のすべてが県あるいは市の指定文化財になっているという由緒ある寺院です。四季を通じて多くの参詣者が全国から訪れ、湖辺近くの山腹風景も美しいです

。 <重文>本堂 三重塔 鐘楼 護摩堂 絹本著色紅波璃阿弥陀像 絹本著色勢至菩薩像 絹本著色釈迦三尊像 綿本著色涅槃像 木造千手観音立像 木造 地蔵菩薩立像 木造毘沙門天立像 木造聖観音立像 木造十一面観音立像
(滋賀県観光情報WEBサイトより引用)
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