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登頂日
2011年5月21日(土)
天 候
曇り/晴れ
同行者
単独行

火打ち岩登山口⇒鳥居堂跡⇒クリンソウ群生地⇒大岳寺跡⇒御岳⇒西ヶ岳⇒御岳⇒大岳寺跡⇒鳥居堂跡⇒火打ち岩登山口








 mixiのマイミクである山仲間Rちゃんの日記を見て、多紀連山にクリンソウの自生地があることをはじめて知った。

 クリンソウは、サクラソウ科の多年草で山間の湿潤地に生育する植物。花の咲く姿が仏塔の先端にある九輪に似ていることが名前に由来。

 兵庫県では絶滅危惧種Aランクに指定されている・・・などと書いてみたが、どのような基準でランク付されてるのかは全く知らない 。

 そのクリンソウの自生群生地が我が家からさほど遠くない多紀連山にあったとは驚き、桃の木、山椒の木である

 この自生群生地が発見され、表舞台に立ったのは平成19年6月だそうだ。当然ハイカーによって発見されたとされている。それまでは、地元の人や一部のハイカーだけが知っている『秘密の花園』だったのだろう。

そんな近くなら当然行かなきゃということで、またまた早朝単独山行。現地の駐車場に着いたのが5時30分過ぎ。駐車場の入り口にクサリが掛けてあり入れないではないか。車から降りてみると南京錠などでロックはされてなかったので、勝手にはずして入庫させていただいた。

  5時40分頃出発。 クリンソウが綺麗に花を咲かせている。最上部はまだ蕾状態のが大半だったので、もうしばらく楽しめそうだ。もう一回きてもいいかも・・・などと思ってしまう。

 クリンソウ群生地から御嶽に近づくにつれガスが濃くなってくる。山頂からはガスで眺望なしの真っ白け。

 せっかくきたので西ケ嶽にも足を伸ばしピストンで下山。 西ケ嶽から戻りの御嶽は、ガスも晴れ、まずまずの眺望であった。

 行動食を持って行かず、お腹がすいたので篠山市街で朝マック。買い物して、定期券の払い戻しに行って、図書館で本を借りてから、11時半ごろ帰宅した。
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登頂日
2011年5月8日(日)
天 候
晴れ
同行者
囲炉裏村メンバー9名

新神戸⇒市が原⇒森林植物園⇒修法ケ原⇒諏訪山⇒三宮








 村の仲間と六甲に行くことになった。新神戸に集合しトゥエンティクロスから神戸市立森林公園へ。下山路は登ってから決めようということに。

 我が家からはバス1本で行けて、尚且つ降車した目の前が集合場所なので、新神戸集合だと朝ゆっくりできるのがよい。新神戸到着時、我々の同行メンバーはまだ誰も来てなかったが、村のIさんに遭遇。テントの虫干しをするとのことでテントを担いで登るそうだ。Iさんは先に出発され、同行メンバーも徐々に集まりだした。

 全員揃ったので出発。布引の滝から五本松堰堤を経て市が原へ。市が原の河原で先に出発したIさんがテントを広げていた。

 市が原からトゥエンティクロスを通り森林公園へ向かうつもりでトゥエンティクロスに入る。途中の工事迂回場所で道を誤ったのかトゥエンティクロスからはずれ高雄山管理道に入ってしまった。高雄山管理道もトゥエンティクロスと同じ森林公園東門に出るので、そのまま進むことにした。おかげでトゥエンティクロスならぬツークロスになってしまった。

 森林公園に到着後ランチタイム。昼食後に園内を散策。シャクナゲが綺麗に花を咲かせていた。

 下山は修法が原(再度公園)から大龍寺を経て諏訪山公園は。街中を三宮まで戻り199円ビールの店でアワアワ後解散となった。

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登頂日
2011年5月4日(水)
天 候
晴れ
同行者
囲炉裏村メンバー4名

JR中山寺駅⇒阪急中山駅⇒中山寺⇒中山寺奥之院⇒中山最高峰⇒北摂大峰山⇒武庫川渓谷廃線跡(野外宴会)⇒JR武田尾駅







山仲間のMさんの店でSさんと同席。
4日にどこかに行こうといいう話になる。
行き先が決まらないうちに帰路に着く。

翌日、
中山寺→中山最高峰→北摂大峰山→武田尾の廃線跡で野外宴会
でどう?とSさんにメールするとOKとのこと。

何名かにお誘いのメールを送るが、前日の昼頃ではさすがに急すぎ・・・

それでも2名参加者が増え、おやじ5人での山行となった。

何度も登ってる山のなで、山に関して特筆することもないので割愛。

ひとつだけ、北摂大峰山で出会ったカップル。新聞か雑誌の切抜きと思われる、小さな紙片だけ持って武田尾側から登ってきたようだ。服装も普通の街歩きスタイル。中山まで行かずに帰れるかと質問された。十万辻まで下ってバスで宝塚に出るか、武田尾に戻るかだよって教えてあげた。

すると・・・
女性「武田尾ってどっちですか」
おいら「川沿いの廃線から登ってきたんでしょう?」
女性「そうです」
おいら「その道を下るんだよ」
女性「え?、今来た道ですか」
おいら「そう」

十万辻に下りるほうが近いこと、ただしバスの本数は少ないことを教えてあげた。で結局二人は十万辻方面に下っていった。
新聞か雑誌のちょこっとした記事を見て、気軽に登ってきたのだろうが、もう少し下調べをして登ってほしいものだ。

我々は、そのカップルとは反対の武田尾方面へ下山。

廃線跡の広場で、お待ちかねの野外宴会。鍋を囲みながら延々4時間に及ぶ「親父会」でした。 いやぁーよう飲みました。やっぱ野外宴会は最高やね。

楽しく満足な一日でした。
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登頂日
2011年4月29日(金)
天 候
曇り/晴れ
同行者
単独行

観音堂登山口⇒滝山古墳⇒二の山⇒三の山⇒四の山⇒深坂北峰⇒向山三角点⇒五の山⇒蛙子峰⇒珪石山⇒水分れ展望所⇒水分れ公園








 今年は、まだヒカゲツツジを観ていない。 今週末には観に行かないと今年は会えずに終わってしまいそう・・・ そんなことを週はじめから考えていた。

 月末最終週とあり、今週は仕事は忙しい。昨日も帰宅したのは午前様・・・と言っても飲みに行ってたわけではない。残業で遅くなったわけである。朝起きれたら予定通り行こうと床に入ったのが2時過ぎであった。

 4時半に目が覚め、布団から這い出し早々に準備し5時過ぎに自宅を出発。6時過ぎに水分れ公園駐車場着。

 観音堂登山口から向山連山に入る。期待と急登とで胸をゼェーゼェー弾ませながら登る。すると・・・今年も黄色い貴婦人ヒカゲツツジが出迎えてくれた。全体的にみると時期が遅かったようだが、まだまだ綺麗に花を咲かせている樹が沢山あり満足。黄色い貴婦人ヒカゲツツジを思う存分堪能した。ヒカゲツツジの他にもアセビやコバノミツバツツジも綺麗である。また、ところどころにある展望所からは、雲海が広がる幻想的な素晴らしい眺望を楽しませてもらった。

 8時半過ぎに水分れ公園に下山、また来年ヒカゲツツジに会いに来るからと現地を後にした。

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散策日
2011年4月17日(日)
天 候
晴れ
同行者
単独






撮影:Canon PowerShot SX200 IS


篠山城に桜を求めて行ってきた。

篠山なら、まだ大丈夫かと思ってたのだが・・・
すでに遅く終わりかけだった。

でも、天気も良かったし、充分に綺麗な桜を観る事ができた。

◆篠山城跡(日本100名城)
 篠山城は、慶長14年(1609)征夷大将軍となった徳川家康が、近畿・中国・四国の十五ヶ国、二十大名に夫役を命じ築城した天下普請の城である。天下普請の城郭には、他に、二条城・丹波亀山城・膳所城・彦根城・名古屋城・駿府城・越後高田城・江戸城)などがある。
 普請奉行には池田輝政、縄張り奉行には藤堂高虎を任命し、京都から山陰、山陽へ通じる要衝の地を守る為、城主には家康の庶子である、松平康重が置かれた。
 篠山城は比高15メートルの小山を利用した平山城で、縄張り形式は方形で、天守台・殿守丸・二の丸が梯郭式で、それを囲む三の丸は輪郭式である。三の丸の濠は東西南北約400メートル、幅が約40メートル。三の丸の大手・東・南の三門は土橋で外濠を渡り、そこに角馬出しがついていた。とくに南馬出しは土塁で現在もよく残っている。

・篠山城本丸跡
 築城当初は現在の二の丸が本丸、現在の本丸は南東の隅に、天守台が造られたことから、特に殿守丸と呼ばれていました。
 天守台の大きさは東西約十九メートル、南北約二十メートル、約三百八十?の広さがあります。天守台石垣は本丸内側からの高さ、約四メートル、外側の南と東側犬走りからの高さ約十七メートルで、篠山城で最も高い石垣です。 天守閣は築城の時に建築が中止され、代わって天守台南東隅に二間四方(四メートル四方)の一重の隅櫓が建てられました。

 本丸の周囲は天守台と南西隅・北西隅・北東隅の三ヶ所に二重の隅櫓を建て、間を多聞櫓でつないで内部を囲んでいました。二の丸には大書院をはじめとする御殿が建てられたのに対して、本丸には御殿等の建物はなかったようです。
本丸内の北側中央にある一の井戸は岩盤を掘り抜いたもので、深さ約十六メートル(内水深八メートル)で、掘るのに二年もかかったと伝えられています。

・大書院跡
 篠山城大書院は二の丸跡に所在した城主居館の中で、とくに歴代城主による公式行事に使用された場所で、正規の書院造の建物となっていました。
この建物は慶長十四年(1609)の徳川幕府の天下普請による篠山城築城時に、京都二条城の御殿を参考にして建てられたと伝えられ、大きさは東西二十八メートル、南北二十六メートルの篠山城最大の規模となっていました。内部には上段の間、孔雀の間などの多くの部屋があり、障壁画で飾られていたと考えられます。
 廃城後もこれだけ残されましたが、昭和十九年の失火により失われました。その後、焼失から五十六年たった平成十二年三月大書院の威容が大書院跡地に蘇りました。
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