JR道場駅から東へ向け出発。最初の踏切を渡り、川沿いに舗装路を歩いていくと、レトロな雰囲気の千苅貯水場の正門が前方に見えてくる。舗装道路は正門の中へと続くが、門は閉ざされており貯水場敷地内に入ることはできない。右に回りフェンスと波豆川の間を歩くことになる。しばらく進むと正面に高さ約42mの石積みの干苅ダムが現れる。堰堤手前の干苅橋を対岸に渡り川沿いに150mほど戻った左側が大岩岳への取り付きだ。
水路の右側のフェンス沿いを登ると流れの穏やかな谷川となる。やがて谷川と離れ雑木林の坂道を登っていくと木々の間から眼下に湖面を望むことができる。軽いアップダウンを繰り返し進んでいくと視界が開けた広場に出る。眼下に悠々と水を湛えた美しい湖面が飛び込んでくる。ここから尾根伝いに大岩岳を目指す。急登を登りきったピークを越え進んでいくと、やがて前方に大岩岳が見える。ここから一気に急登を登りきると大岩岳山頂である。
山頂には二等三角点があり、六甲山系から能勢の山々、地元三田の羽束山、有馬富士、大船山、山裾に広がる湖面と360度の大パノラマが広がっている。 山頂で眺望を観ながらの珈琲タイムを楽しんだ後ピストンで干苅橋まで下山。
干苅橋を渡り大堰堤左側の階段を貯水池へと上る。湖岸の道を進み、フェンスが切れると湖と離れ谷筋に入る。谷筋を登って行くと前方に砂防堰堤が現れる。左側から堰堤を越えるとゴルフ場のフェンストンネルとトンネルを通り抜けて進んでいく。この辺りは道が悪くぬかるんでいて、足首辺りまで泥に潜ってしまう所もあるので注意して歩こう。飛び石の有る箇所は飛び石の上を歩いたほうが無難である。また、2つ目のトンネルはやや長めで暗く足元が見えにくくなる。ライトが無くても歩けないことは無いが準備しておいたほうが無難である。
ゴルフ場を過ぎると光明寺墓園に出る。墓園の舗装路を進むと左手に鏑射寺(かぶらいじ)への道標がある。道標に従い左へ行くと再び山道に入る。登りきったところからゴルフ場沿いにアップダウンを繰り返し進んでいく。やがて鏑射寺と展望台分岐箇所に到達する。展望台は分岐からすぐである。
展望台で小休憩の後、分岐まで戻り鏑射寺方面へ向かう。目の前に急登が見えてくると山道も終わりが近い。その急登を登りきると車道に出る。車道を左に取ると朱塗りの三重塔がそびえる鏑射寺である。朱塗りの三重塔の右手を登って行くと鏑射大権現の朱塗りの鳥居が見えてくる。鏑射大権現の左奥に鏑射山の三等三角点(点名:黒岩)がある。鏑射寺から車道を20分ほど下っていけばJR道場駅に帰り着く。
◆獨鈷山 鏑射寺(とっこさん かぶらいじ)
兵庫県神戸市北区にある真言宗の仏教寺院。通称、甘楽寺(かぐら-)。本尊は大日如来。581年聖徳太子による開基。境内の池には大賀一郎が縄文遺跡で発見した古代のハス(大賀ハス)が育てられている。
◆獨鈷山鏑射寺略縁起
当山は、神体山として数千年の歴史を有し、神秀倉(かみほぐら)・甘楽山(かぐらやま)・五智の峰などと呼ばれて人々に尊崇されておりました。
聖徳太子は、ご生母の里にある此の山が大層お気に召し、伽藍を建て仏教弘通(ぐつう)の道場として鏑矢(かぶらや)を奉納、鏑射寺と命名されました。
その後、弘法大師は境内に独鈷水の井戸を掘られ、百丈岩には穿仏(せんぶつ)岩にご足跡を残しておられます。 また、北条時頼や太閤秀吉三度の参詣の事跡等々がありますが、南北朝時代と江戸時代に戦火と山火事にあい、文久二年(1862年)の勇阿上人による再建を待ちました。
明治6年、三田九鬼藩の天誅組と称する不逞藩士が神社仏閣を襲い、当寺も火を放たれ焼け残った太子堂及び本尊什器は寺廻りに移されて、その後廃寺となりました。
時を経ること約百年、昭和30年秋に久邇宮朝融(くにのみやあさあきら)王殿下が、道なき所を攀(よ)じ登り、生い茂る草をかき分けてご参拝になり、鏑射寺の再建と国家国民の安寧をお祈りになられました。
昭和34年9月、現山主中村公隆師が入山、祈願に入りました。 同41年に護摩堂(不動明王)が、48年には三重塔(虚空蔵菩薩)、続いて53年函館の地に別院(不動明王等)が建立されました。
逐次旧寺領の買い戻しも進み、平成4年に大日如来・愛染明王を奉迎して本堂の落慶入仏法要が厳修され、同6年に弁天堂の落慶を見ました。
前記諸尊の他に、十一面観世音菩薩(飛鳥仏)、聖徳太子、弘法大師、毘沙門天がお祀りされています。 |
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