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2011年12月アーカイブ

西国三十三所公認先達授与品(外箱)
西国三十三所公認先達授与品
西国三十三所公認先達授与品
西国三十三所公認先達拝命文
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西国三十三霊場 御朱印・本尊御影・梵字本尊

 先日の谷汲山華厳寺で、西国三十三所巡礼の満願を果たし、西国三十三所先達委員会公認先達の申請をしいた。歳の瀬も押し迫った大晦日の今日、先達会より授与品が送られて来た。

 これで、小生も西国三十三所公認先達の仲間入り。先達の名に恥じないよう、今後も精進していきたいと思う。ちなみに授与品は、輪袈裟・頭陀袋・軸装納経帳・名札。

 新年から二巡目開始だ。

◆同封書面の内容
拝啓 貴家益々御盛栄のことと御喜び申し上げます。
西国巡礼につきましてもご高配賜り御礼申し上げます。
西国三十三所御先達様御就任おめでとう御座います。
御袈裟、頭陀袋、軸装納経帳、名札を御送付させて頂きます。
先達様と共に御参拝された方へのみ、授与させていただきます御詠歌護符につきましては御袈裟や名札にて先達様の確認をさせて頂きますので、巡拝時には御袈裟を御守持され、頭陀袋等を御奉持下さい。 納経は御袈裟、名札を着用のうえ先達様御本人が御宝印を御受け下さい。
中先達様、大先達様への申請には本日御送付させて頂きました軸装納経帳でのみ巡拝回数を確認させて頂きますので御参拝の都度、軸装納経帳に御宝印を御受け下さい。
尚、代参は御遠慮頂きますよう、ご案内申し上げます。
今後とも益々観音信仰を鼓吹頂きますようお願い申し上げます。
合唱

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参拝日:2011年12月11日(日)
第三十三番札所 谷汲山 華厳寺
御 詠 歌
世を照らす 仏のしるし ありければ まだともしびも 消えぬなりけり(現在)
万世の 願いをここに 納めおく 水は苔より 出る谷汲(過去)
今までは 親と頼みし 笈摺を 脱ぎ納むる 美濃の谷汲(未来)
御本尊
十一面観世音菩薩
宗 派
天台宗
開 基
豊然上人・大口大領
開創年
延暦17(798)年
所在地
岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲徳積23 0585-55-2033
拝観料
無料
 URL









 先週の日曜日、善峯寺にお参りし、西国三十三観音霊場の札所三十二ヶ寺と番外札所三ヶ寺を巡り、残すところ一ヶ寺となった。最後の霊場は、西国三十三所満願霊場の谷汲山華厳寺である。華厳寺は、西国霊場の中で唯一近畿圏外である岐阜県揖斐川町に位置する天台宗の名刹である。この華厳時に西国三十三所結願のお参りに行ってきた。

 満願と結願と二通りの言葉があるが、先日の青岸渡寺バスツアー同行の先達さんの話によると、三十三番札所の華厳寺で満願した場合は 結願、それ以外の霊場は満願と言うそうな。とはいうものの華厳寺には「西国三十三所満願霊場」の碑が立っている。まあ、そのあたりは気にしないようにしよう。

 いざお参りに行くとなるとやっぱり遠い。当初は青春18きっぷを利用しようと考えていたが、大垣からの私鉄・バス運賃と運行便数、我地元三田からの所要時間を考えるとやや割高にはなるが、車で行くほうが、はるかに時間短縮もでき楽なので車でお参りしてきた。

 早朝に出発し仁王門横の駐車場着が8:30。早速仁王門をくぐり境内へ入る。朝早い関係もあり参拝客はまばらだ。ゆっくりとお参りを済ませ、内陣入り口にある納経所で御朱印をいただく。花山法皇が三首のご詠歌を奉納したことにちなみ、ここ華厳寺の御朱印は本堂・満願堂・笈摺堂(おいづるどう)の三種。それぞれ、現在・過去・未来を表すそうだ。

 三種の御朱印を頂き、番外の花山院からはじまった西国巡礼は二年半の月日を要し満願・結願となった。せっかくなので満願之証をいただく。

 本堂の左奥にある笈摺堂・満願堂にお参り。時間があるので満願堂の右手から奥之院に登れるようなので行ってみることに。奥之院への参道沿いに西国三十三所霊場の小さなお堂が一番青岸渡寺から順に建てられており、中には観音石像が祀られている。25分ほどで奥之院に到着。お参り後。登ってきた道を下る。

 これで一通りのお参りをすませたので、本堂に戻り、柱に取り付けられている青銅製の「精進落としの鯉」に触れ、西国一巡目を終えた。新年からは、先達として二巡目をはじめたいと思っている。

南無大慈悲観世音菩薩




西国三十三霊場 御朱印・本尊御影・梵字本尊

◆札所データ
 谷汲山華厳寺の創建は、今から約千二百年前の延暦十七年(798年)で開祖は豊然上人、本願は大口大領です。

 奥州白川郷の大口大領はつねづねより十一面観音の尊像を建立したいと強く願っており、京の都から観音像を故郷へ持ち帰る最中、突然尊像が重く動かなくなり、この地こそが結縁の地であろうと山中に柴の庵を結び、三衣一鉢、誠に持戒堅固な豊上人という聖(ひじり)と力を合わせて山谷を開き、堂宇を建てて尊像を安置し奉りました。すると堂近くの岩穴より油が滾々と湧き出し、いっこうに尽きることが無かったので、それより後は燈明に困ることが無かったといいます。

 この話を聞こし召された当時の天皇、醍醐天皇(885-930)は谷から湧き出る油を燈明に用いたのにちなんで「谷汲山」の山号、そして「華厳寺」の扁額を下賜せられました。この寺号は御尊像に華厳経が書写されている事にちなむとされています。

 天慶七年(944年)には、朱雀天皇(923-952)より鎮護国家の道場として勅願寺に定められ、仏具・福田として一万五千石を拝領賜りました。

 また西国巡礼中興の祖とされる花山法皇(968-1008)は西国三十三所の霊場を御徒歩で御巡幸あらせられ、当山を第三十三番札所の満願所と定められ、御禅衣(笈摺)、御杖、及び三首の御詠歌を奉納せられました。

 およそ百八十余年を経て後白河法皇(1127-1192)は、先帝花山法皇の御跡を慕われて同行千有余人を従えて御巡幸あらせられました。

 それから後は建武元年(1334年)足利氏と新田氏の戦乱が起こり、新田氏一族堀口美濃守貞満の乱を始めとする戦乱で幾度と諸堂伽藍を焼失するも、このような危難の中、御本尊だけは辛うじて後方の山中に移し奉って御安泰なることを得ました。以後文明十一年(1479年)の再興までは二度の兵燹に遭い、一時期は衰退を迎えるも、人皇百五代・後土御門天皇(1442-1500)の御宇、文明十一年(1478年)薩摩国鹿児島の慈眼寺住職道破拾穀(どうはじっこく)上人が海山を越えて遥々尋ね来て、本堂及び諸堂を再興して尊像の御心を安め奉ったのです。

 その後幾多の星霜を経て大破したので、明治八年(1875年)豪泰法印が再建の願主となり、同十二年(1879年)現在のお堂が再建されています。このように当山は古来より観音信仰の霊験厚く、また天皇、法皇を始めとする皇室、朝廷、有力豪族や民衆からの帰依厚く、益々の隆盛を極めました。

 当山では西国三十三番の満願霊場として花山法皇が詠まれた御製三首の御詠歌にちなんで三つの御朱印をお授けしております。三つの御朱印は本堂(観音堂)、満願堂、笈摺堂を指し、それぞれ現在・過去・未来を表しているとされております 。
(西国三十三所巡礼の旅より引用)
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登頂日
2011年12月4日(日)
天 候
晴れ/曇り
同行者
囲炉裏メンバー3名

総持寺/阪急大山崎駅⇒宝積寺⇒天王山⇒大沢⇒釈迦岳⇒ポンポン山⇒善峯寺












 西国三十三所二十番札所の善峯寺は、囲炉裏村のオフ会で2009年4月に訪れているが、それは西国巡礼をはじめる2ヶ月ちょっと前ということで、当然ながらご朱印は頂いていない。また、善峯寺からほど近いポンポン山に登ったことがなかいので合わせて行こうと考えていた。そこで、高槻市在住のHやんに案内をお願いしたところ、天王山もあわせてのコースで案内いただけることになった。

 同じく西国巡礼をされているRちゃんとYちゃんもお誘いしての山行となった。このお二人は、二十二番札所総持寺がまだということだったので、せっかく山崎方面に出てくるのであれば、総持寺もお参りしてはということになり、先に総持寺をお参りしてから、集合場所に向かうことにした。その旨をHやんに連絡したところ、同じ電車に途中駅から乗ってこられることになった。

 阪急大山崎駅に8:59に到着。天王山に向かう。JRの踏切を越えたところに「天王山登り口」の石柱が立っている。ここから少し進むと大黒天が祀られている宝積寺である。紅葉がまだ残っており写真を撮りながらゆっくりと進む。宝積寺の境内を抜けると登山道に入る。

 天王山はご存知のように豊臣秀吉の天下取りで「天下分け目」の決戦場として広く知られており、ハイキングコースが整備されている。このハイキングコースを「秀吉の道」と名づけ、秀吉の天下取りの物語を解説する大きな陶板が所々に設置されている。

 酒解神社の鳥居横の展望台からの眺望を楽しみながら小休止を挟み、酒解神社を抜けて天王山の山頂に立つ。

 天王山から大沢に抜けるが、この道もよく整備されたハイキングコースということもあり多くのハイカーとすれ違う。途中大佛乗願寺ふもとの紅葉と樹齢800年といわれる大沢の杉を見学して進む。

 釈迦岳手前のベンチがある場所で昼食。釈迦岳を経てポンポン山に到着。山頂からは比叡山や琵琶湖を望むこともできるパノラマが眼下に広がる。到着時は多くのハイカーで賑わっていたが、バンダナショットを撮って、しばらく休憩しているうちに我々だけになったので、我々も善峯寺へ向け下山。

 1時間程で善峯寺に着く。本堂(観音堂)にお参りし、ご朱印をいただいた後、境内の紅葉や樹齢約600年の五葉松で幹が横に這うように伸びていることから遊龍の松(天然記念物)を見学。この松の全長は50数メートルにも及んだそうだが、松食い虫の被害で10メートルほど切断されたそうである。悪名高い「生類憐れみの令」で知られる徳川5代将軍綱吉の生母で桂昌院が植えたと伝えられる「桂昌院お手植えのしだれ桜」もみごとなのだが、残念というか当然なのだが、今の季節は垂れ下がる枝だけの姿である。

 善峯寺からは、バスで阪急東向日に戻り、駅前の居酒屋でアワアワを楽しみ解散となった。案内いただいたHやんありがとうございました。また、近辺の山を案内していただければ幸いです。

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参拝日:2011年12月4日(日)
第二十番札所 西山 善峯寺
御 詠 歌
野をもすぎ 山路にむかふ 雨の空 善峯よりも 晴るる夕立
御本尊
千手観世音菩薩
宗 派
天台宗単立
開 基
源算上人
開創年
長元2(1029)年
所在地
京都市西京区大原野小塩町1372   TEL:075-331-0020
拝観料
500円
 URL


西国三十三霊場 御朱印・本尊御影・梵字本尊

◆札所データ 
当山は、長元2年(1029)源算上人の開山である。源算上人は、恵心僧都の高弟で、因幡(鳥取)に生まれ、横川(比叡山)の恵心僧都に従い、顕蜜の蘊奥を極め47歳の時、当山に入られ小堂を結び、十一面千手観音の像を刻み本尊となし、仏法を興隆された。長元7年9月、後一条天皇より、鎮護国家の勅願所と定められ良峯寺の寺号及び聖詠を賜わった。

"野をもすぎ 山路に向う、 雨の空 善峯よりも 晴るる夕立"

以来歴朝の御崇敬篤く、長久3年、後朱雀天皇、洛東鷲尾寺より本尊仁弘法師作、十一面千手観音像を当山に遷して本尊とし、先の十一面千手観音像を脇立とされた。 白河天皇、諸堂を建立し給い、その後慈鎮和尚善恵上人、その高徳を相嗣がれ、また青蓮院の宮が代々当山に住まわれた。即ち覚快、道覚、慈道、尊円、尊道、尊祐、尊真、尊寳、尊證、各法親王である。そして西山の宮(門跡)と称された。

後花園天皇(102代)が伽藍を改築せられ、僧坊52の多きに及んだが、応仁の乱に兵火を免れず焦土と化した。

その後徳川五代将軍の母堂桂昌院が当山を復旧され、二百石及び山林42万5千坪を寺領とし明治に至った。

重要文化財として、多宝塔・大元師明王軸 その他文化財多数あり。
(西国三十三所巡礼の旅より引用)

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