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西国第三十三番満願霊場 谷汲山 華厳寺(美濃国)

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参拝日:2011年12月11日(日)
第三十三番札所 谷汲山 華厳寺
御 詠 歌
世を照らす 仏のしるし ありければ まだともしびも 消えぬなりけり(現在)
万世の 願いをここに 納めおく 水は苔より 出る谷汲(過去)
今までは 親と頼みし 笈摺を 脱ぎ納むる 美濃の谷汲(未来)
御本尊
十一面観世音菩薩
宗 派
天台宗
開 基
豊然上人・大口大領
開創年
延暦17(798)年
所在地
岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲徳積23 0585-55-2033
拝観料
無料
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 先週の日曜日、善峯寺にお参りし、西国三十三観音霊場の札所三十二ヶ寺と番外札所三ヶ寺を巡り、残すところ一ヶ寺となった。最後の霊場は、西国三十三所満願霊場の谷汲山華厳寺である。華厳寺は、西国霊場の中で唯一近畿圏外である岐阜県揖斐川町に位置する天台宗の名刹である。この華厳時に西国三十三所結願のお参りに行ってきた。

 満願と結願と二通りの言葉があるが、先日の青岸渡寺バスツアー同行の先達さんの話によると、三十三番札所の華厳寺で満願した場合は 結願、それ以外の霊場は満願と言うそうな。とはいうものの華厳寺には「西国三十三所満願霊場」の碑が立っている。まあ、そのあたりは気にしないようにしよう。

 いざお参りに行くとなるとやっぱり遠い。当初は青春18きっぷを利用しようと考えていたが、大垣からの私鉄・バス運賃と運行便数、我地元三田からの所要時間を考えるとやや割高にはなるが、車で行くほうが、はるかに時間短縮もでき楽なので車でお参りしてきた。

 早朝に出発し仁王門横の駐車場着が8:30。早速仁王門をくぐり境内へ入る。朝早い関係もあり参拝客はまばらだ。ゆっくりとお参りを済ませ、内陣入り口にある納経所で御朱印をいただく。花山法皇が三首のご詠歌を奉納したことにちなみ、ここ華厳寺の御朱印は本堂・満願堂・笈摺堂(おいづるどう)の三種。それぞれ、現在・過去・未来を表すそうだ。

 三種の御朱印を頂き、番外の花山院からはじまった西国巡礼は二年半の月日を要し満願・結願となった。せっかくなので満願之証をいただく。

 本堂の左奥にある笈摺堂・満願堂にお参り。時間があるので満願堂の右手から奥之院に登れるようなので行ってみることに。奥之院への参道沿いに西国三十三所霊場の小さなお堂が一番青岸渡寺から順に建てられており、中には観音石像が祀られている。25分ほどで奥之院に到着。お参り後。登ってきた道を下る。

 これで一通りのお参りをすませたので、本堂に戻り、柱に取り付けられている青銅製の「精進落としの鯉」に触れ、西国一巡目を終えた。新年からは、先達として二巡目をはじめたいと思っている。

南無大慈悲観世音菩薩




西国三十三霊場 御朱印・本尊御影・梵字本尊

◆札所データ
 谷汲山華厳寺の創建は、今から約千二百年前の延暦十七年(798年)で開祖は豊然上人、本願は大口大領です。

 奥州白川郷の大口大領はつねづねより十一面観音の尊像を建立したいと強く願っており、京の都から観音像を故郷へ持ち帰る最中、突然尊像が重く動かなくなり、この地こそが結縁の地であろうと山中に柴の庵を結び、三衣一鉢、誠に持戒堅固な豊上人という聖(ひじり)と力を合わせて山谷を開き、堂宇を建てて尊像を安置し奉りました。すると堂近くの岩穴より油が滾々と湧き出し、いっこうに尽きることが無かったので、それより後は燈明に困ることが無かったといいます。

 この話を聞こし召された当時の天皇、醍醐天皇(885-930)は谷から湧き出る油を燈明に用いたのにちなんで「谷汲山」の山号、そして「華厳寺」の扁額を下賜せられました。この寺号は御尊像に華厳経が書写されている事にちなむとされています。

 天慶七年(944年)には、朱雀天皇(923-952)より鎮護国家の道場として勅願寺に定められ、仏具・福田として一万五千石を拝領賜りました。

 また西国巡礼中興の祖とされる花山法皇(968-1008)は西国三十三所の霊場を御徒歩で御巡幸あらせられ、当山を第三十三番札所の満願所と定められ、御禅衣(笈摺)、御杖、及び三首の御詠歌を奉納せられました。

 およそ百八十余年を経て後白河法皇(1127-1192)は、先帝花山法皇の御跡を慕われて同行千有余人を従えて御巡幸あらせられました。

 それから後は建武元年(1334年)足利氏と新田氏の戦乱が起こり、新田氏一族堀口美濃守貞満の乱を始めとする戦乱で幾度と諸堂伽藍を焼失するも、このような危難の中、御本尊だけは辛うじて後方の山中に移し奉って御安泰なることを得ました。以後文明十一年(1479年)の再興までは二度の兵燹に遭い、一時期は衰退を迎えるも、人皇百五代・後土御門天皇(1442-1500)の御宇、文明十一年(1478年)薩摩国鹿児島の慈眼寺住職道破拾穀(どうはじっこく)上人が海山を越えて遥々尋ね来て、本堂及び諸堂を再興して尊像の御心を安め奉ったのです。

 その後幾多の星霜を経て大破したので、明治八年(1875年)豪泰法印が再建の願主となり、同十二年(1879年)現在のお堂が再建されています。このように当山は古来より観音信仰の霊験厚く、また天皇、法皇を始めとする皇室、朝廷、有力豪族や民衆からの帰依厚く、益々の隆盛を極めました。

 当山では西国三十三番の満願霊場として花山法皇が詠まれた御製三首の御詠歌にちなんで三つの御朱印をお授けしております。三つの御朱印は本堂(観音堂)、満願堂、笈摺堂を指し、それぞれ現在・過去・未来を表しているとされております 。
(西国三十三所巡礼の旅より引用)
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