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西国三十三所 第十一番札所 深雪山 上醍醐寺(山城国)

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参拝日:2011年6月25日(土)
第十一番札所 深雪山 上醍醐寺
御 詠 歌
逆縁も もらさで救う 願なれば 准胝堂は たのもしきかな
御本尊
准胝観世音菩薩
宗 派
真言宗醍醐派(総本山)
開 基
聖宝理源大師
開創年
貞観16(874)年
所在地
京都府京都市伏見区醍醐醍醐山1 075-571-0002
拝観料
600円
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西国三十三霊場 御朱印・本尊御影・梵字本尊

醍醐寺は聖宝理源大師が貞観16年(874)に上醍醐山上で地主横尾明神の示現により、醍醐水の霊泉を得、小堂宇を建立して、准胝、如意輪の両観音像を安置したのに始まる。そののち醍醐・朱雀・村上三帝のご信仰がよせられ、延喜7年(907)には醍醐天皇の御願による薬師堂が建立され、五大堂も落成するに至って上醍醐の伽藍が完成した。それに引き続くように下醍醐の地に伽藍の建立が計画され、延長4年(926)に釈迦堂が建立され、ついで天暦5年(951)に五重塔が落成し、下伽藍の完成をみた。

醍醐寺はその後、真言宗小野流の中心寺院として仏教史において重要な地位を占めている。そればかりでなく、政治の中心にあった人達との交渉も深く、例えば藤原一族に代わって大きい権力を持っていた権門源俊房の系統(醍醐源氏)の人が座主として幾代も続いた。そして座主勝覚(俊房の息)の時代に山上・山下共に伽藍がことごとく整備され、永久3年(1115)に三宝院が建立され醍醐寺発展の基礎が確立されたのである。

その後、隆盛を極めた醍醐寺も長い年月の間に幾度かの火災と殊に応仁・文明の大乱の余波とによって下伽藍堂宇はことごとく灰燼に帰してしまったが、幸いにも五重塔だけが難を逃れ、天暦盛時の姿を今に留めている。また上醍醐・准胝堂は"西国第十一番札所"として、五大堂は"五大力さん"信仰の中心として、広く信仰を集めて現在に至っている。

藤原末期から鎌倉時代にかけては、政治的変動から遠ざかり小野法流・教学の充実がはかられた時期となった。そして、まず醍醐寺の歴史を明確にするために、「醍醐雑事記」15巻が慶延によって編集された。また教学研究の成果の一部として現在でも多数の密教絵画、聖教類と共に仏像研究のために描かれた図像抄、白描図像が多く残されている。 南北朝時代には醍醐寺内部において、後醍醐天皇と弘真(文観僧正)、足利尊氏と賢俊の交渉などがあって、二派にわかれて対立した状態が続いた。その当時の政治的緊張を示す資料がいくつか残されている。特に政治の中心と交渉を深く保って、伽藍の復興、寺門の整備に大いに力を尽くしたのは、応永・永享年間のころ座主であった満済准后と桃山時代の義演准后である。

この両者は共に詳細な日記を残していて、その対外的活躍の概略を知ることができるが、それにもましてこの人達が文化財の保存に心を尽くしていたことが、裏書や奥書などによって知られる。また義演准后は豊臣秀吉と関係を持って、その力によって伽藍、三宝院殿舎・庭園の復興をなすと共に、一代の英雄の最後をかざる善美を尽くした醍醐の花見を催させたことによって知られた人である。

江戸時代に入り、修験道中興の祖・聖宝により継承されてきた三宝院に属する修験(山伏)を「当山派」と称する許可を幕府より得、座主高賢の大峯入峰により醍醐の教風がひろまっていった。現在もその法流を汲み花供入峰修行が行われている。

江戸末期の混乱と明治維新以後の変革の波は大きく、仏教各宗派全般の傾向にしたがったように、大小幾多の子院は廃亡し伽藍と中心的子院だけが残った。現在ではそれらの建築の主要なものの多くが、国宝や重要文化財に指定されている。

また一山の宝物・十数万点は霊宝館に収蔵保存され、春秋二期に陳列して一般に公開されている。
(醍醐寺WEBサイトより引用)

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