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軍師官兵衛ゆかりの三木城跡と三木電鉄廃線跡サイクリング

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走行日
2014年7 月21日(月)
天 候
晴れ
同行者
単独





 
 


2008年3月31日がラストランとなり廃線となった三木鉄道の廃線跡地に行ってみたいと思い立ち自転車で行ってきた。

県道18号・20号と辿って三木市街地へと入る。せっかく三木まで来たのだからと三木城跡に立ち寄ってみる。三木城は三木合戦(三木の干殺し)で有名な城である。三木城の主郭跡は上の丸公園として整備されており、本丸跡(天守台)には「今はただうらみもあらじ諸人のいのちにかはる我身とおもへば」と記された三木合戦時の城主別所長治公辞世の歌碑が建ってる。

先に記した三木合戦に黒田官兵衛が参戦していたとのことの影響であろう。観光客で賑わうほどではないが、途切れることなく人が訪れ三木合戦図や三木城址説明板を取り囲んでいる。NHK大河人気恐るべしである。特に三木合戦図はじっくりと読む人が多く、人が途切れて三木合戦図前に愛車TRIACE S220を入れての写真撮影に時間を要してしまった。

■三木城
三木城は東播磨の有力戦国大名だった別所氏の居城で、15世紀後半に別所則治が建てたとされる。台地の先端に築かれた丘城で、北西は川が遮り、南と東には山上に要害等を配置し堅固な城だったという。有名になるのは城主 別所長治の時に起こった織田軍(秀吉)との三木合戦で、秀吉は周囲に数多の付城を築き三木城を包囲。毛利方からの兵糧搬入を阻害し続け、2年もの攻防の末、多くの砦を落とされ兵糧も尽きた別所氏は自害し、降伏開城となった。城は1615年の一国一城令で廃城となった。

■三木合戦(三木の干し殺し)
天下統一を目指す織田信長は、天正5年(1577)に、中国地方の戦国大名毛利輝元を打つため、羽柴秀吉を総大将に任じ播磨に進行させました。播磨の守護代である小寺氏や別所氏など有力武将は、秀吉率いる織田軍に加勢することを約しました。別所氏は、村治、安治のころより織田氏とかかわりが深く、長治の叔父重棟は既に織田方として従軍していました。毛利氏の庇護にあった前将軍義昭は、諸将に織田軍に叛き毛利氏に加勢するよう働 きかけていたため、別所長治を中心に播磨の武将は織田方に反旗を翻し、三木合戦へと発展していきました。(天正6年)

秀吉は、播磨の武将をまとめる別所氏との直接対決で、兵力が消耗することを避け、三木城を領内の播磨内陸部との連絡を絶ち孤立化させるため、三木城の北側に付城群を築き、別所氏に味方する播磨各地の城攻めを行いました。別所方は三木城に新城をあらたに築き合戦に備えていましたが、周辺の城が落とされ兵糧も十分に確保できなくなり、毛利氏、荒木村重などからの兵糧補給を頼りとしていました。荒木氏は丹生山の明要寺を経由し密かに兵糧を補給し、毛利氏は海路明石魚住から補給していました。三木城周辺での戦は、天正6年(1578)10月に平井山の合戦があったほか、天正7年2月魚住からの補給をめぐる戦いが、5月には丹生山での戦が、9月には平田での戦があったことが記録に見えます。これらの戦いは兵糧をめぐる攻防だったと思われ、戦いのたびに兵糧の搬入路を失っていきました。なかでも天正7年2月の戦いの後、織田信忠によって三木城の南側に付城が築かれ、魚住からの搬入が思うようにいかなくなり、迂回して大村坂より搬入することとなって、平田の戦へとつながっていきます。

別所方にとっては兵糧を確保する重要な戦であったのですが、そのたびに多くの武将と兵糧の搬入手段を失い、食料が尽きた城内の領民や兵は餓えに苦しみ悲惨な状況であったと云われ、城主長治は領民の命を救うため、天正8年(1580)1月、一族とともに自刃し開城しました。この合戦を別名「三木の干し殺し」と呼ばれています。


三木城を後にし、三木鉄道記念公園に向かいます。三木鉄道記念公園は、2008年4月1日に廃止(ラストランは前日の3月31日)になった三木鉄道三木線三木駅の駅舎周辺を15m移築・改築した公園である。この廃線跡を少し辿ってみることにする。旧高木駅・旧別所駅を見つけることができた。高木駅は単式ホーム1面1線のみを有する地上駅。東西に走る線路の北側に簡単なホームを添えただけのつくりとなっている。駅舎はなくホームの上に短い上屋があるのみだ。

続いて訪れたのが旧別所駅。ここも単式ホーム1面1線を有する地上駅である。東西に走る線路南側にホームが設けられ、ホームに接して古い木造駅舎が残されている。内部に待合所的な木製ベンチが設けられている。待合所の出札窓口等は板で塞がれている。駅舎入口左手に真新しく立派な「三木鉄道記念碑」が建っている。表面に「三木鉄道の歴史・沿革年表」が記されており、裏面には在りし日の三木電鉄車両走行風景が描かれている。

今回の三木鉄道廃線辿りはここまで。荒れ果てた線路跡を自転車走行するのはちょっと無理なので、次回は三木鉄道記念公園までバイクできて、徒歩で廃線跡を歩いてみたいと思う。

後は帰宅するだけだが、自宅まで約30kmの道のり、まして登りとなる。さすがに暑い陽射しのおかげで体力消耗の帰路となった。途中自動販売機で買った炭酸飲料がなんと美味しかったことか。(ワンコインで500mlのペットボトル飲料が買えるチェリオの販売機があったら、そこで休憩と決めてペダルを回してたんですよ。)

帰宅後シャワーを浴びてからの冷えたビールは最高であった。 




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