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2011年6月25日アーカイブ

参拝日:2011年6月25日(土)
第十五番札所 新那智山 今熊野観音寺
御 詠 歌
昔より 立つとも知らぬ 今熊野 ほとけの誓い あらたなりけり
御本尊
十一面観世音菩薩
宗 派
真言宗泉涌寺派
開 基
弘法大師
開創年
天長年間(824?834)
所在地
京都市東山区泉涌寺山内町32 075-561-5511
拝観料
境内自由
 URL




西国三十三霊場 御朱印・本尊御影・梵字本尊

平安の昔、弘法大師空海上人が唐の国から帰国されてほどなくの頃、東寺において真言密教の秘法を修法されていたとき、東山の山中に光明がさし瑞雲棚引いているのを見られました。

不思議に思われてその方へ慕い行かれると、その山中に白髪の一老翁が姿を現わされ、「この山に一寸八分の観世音がましますが、これは天照大神の御作で、衆生済度のためにこの地に来現されたのである。ここに一宇を構えて観世音をまつり、末世の衆生を利益し救済されよ。」と語りかけられ、またそのときに一寸八分の十一面観世音菩薩像と、一夥の宝印を大師に与えられました。この時に老翁が立ち去ろうとされたので何びとかをたずねると、「自分は熊野の権現で、永くこの地の守護神になるであろう。」と告げられて姿を消されました。

大師は熊野権現のお告げのままに一堂を建立され、みずから一尺八寸の十一面観世音菩薩像を刻まれ、授かった一寸八分の像を体内仏として納め、奉安されたのが当山のはじまりです。弘法大師御作のこの観世音菩薩像は秘仏として大切にまつられ、一千二百年の長きにわたって衆生を利益し続けておられます。

またこの時に大師が、観世音をまつるのにふさわしい霊地を選ぶために錫杖をもって岩根をうがたれると霊泉が湧き出しました。大師はこの清涼なる清水を観音御利生の水として崇められ「五智水」と名付けられました。爾来今日に到るまでこんこんと湧き出し、私たちに深き恵みの水をお与え下さっています。
(今熊野観音寺WEBサイトより引用)
参拝日:2011年6月25日(土)
第十六番札所 音羽山 清水寺
御 詠 歌
松風や 音羽の滝の 清水を むすぶ心は 涼しかるらん
御本尊
十一面千手千眼観世音菩薩
宗 派
北法相宗(大本山)
開 基
延鎮上人
開創年
宝亀9年(778)
所在地
京都府京都市東山区清水1丁目294 075-551-1234
拝観料
300円
 URL






西国三十三霊場 御朱印・本尊御影・梵字本尊

「清水寺」という寺名は、音羽山中より今もなお途切れることなくこんこんと湧き、音羽の滝に流れる霊泉に由来しています。

この霊泉は「すべての人を救う」観音さまのご利益とあわせ、古来より無病息災、立身出世、財福、良縁、子授けといった現世利益を願う善男善女を集め、「清水の観音さん」の名で全国に広く信仰を得てまいりました。

開創は宝亀9年(778)、奈良時代の末で、山号は音羽山。宗派は北法相宗です。「北」は南都・奈良に対して北の京都に立地するという意味をもっています。

東山・音羽山の中腹に広がる13万平方メートルの境内に、国宝、重要文化財を含む15の伽藍が建ち並びます。そのほとんどが江戸初期の再建であり、平成6年(1994)にユネスコ世界文化遺産「古都京都の文化財」のひとつとして登録されました。

「清水の舞台から飛び降りる」の語源となった本堂の舞台、音羽の滝などが特に知られていますが、緑深い境内には、様々な意匠の堂宇があります。どうぞゆっくりと拝観されて、野鳥が囀る美しい自然のなかで心静かに手を合わせ、観音さまとのご縁をお結びください。
(清水寺WEBサイトより引用)
参拝日:2011年6月25日(土)
第十七番札所 補陀洛山 六波羅蜜寺
御 詠 歌
重くとも 五つの罪は よもあらじ 六波羅堂へ 参る身なれば
御本尊
十一面観世音菩薩
宗 派
真言宗智山派
開 基
空也上人
開創年
天暦5(951)年
所在地
京都府京都市東山区松原通大和大路東入ル2丁目轆轤町 075-561-6980
拝観料
入山無料 宝物館拝観料 600円
 URL





西国三十三霊場 御朱印・本尊御影・梵字本尊

六波羅蜜寺は、天暦5年(951)醍醐天皇第二皇子光勝空也上人により開創された西国第17番の札所である。

当時京都に流行した悪疫退散のため、上人自ら十一面観音像を刻み、御仏を車に安置して市中を曵き回り、青竹を八葉の蓮片の如く割り茶を立て、中へ小梅干と結昆布を入れ仏前に献じた茶を病者に授け、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えてついに病魔を鎮められたという。(現在も皇服茶として伝わり、正月三日間授与している)

現存する空也上人の祈願文によると、応和3年8月(963)諸方の名僧600名を請じ、金字大般若経を浄写、転読し、夜には五大文字を灯じ大萬灯会を行って諸堂の落慶供養を盛大に営んだ。これが当寺の起こりである。

上人没後、高弟の中信上人によりその規模増大し、荘厳華麗な天台別院として栄えた。平安後期、平忠盛が当寺内の塔頭に軍勢を止めてより、清盛・重盛に至り、広大な境域内には権勢を誇る平家一門の邸館が栄え、その数5200余りに及んだ。寿永2年(1183)平家没落の時兵火を受け、諸堂は類焼し、独り本堂のみ焼失を免れた。

源平両氏の興亡、北条・足利と続く時代の兵火の中心ともなった当寺はその変遷も甚だしいが、源頼朝、足利義詮による再興修復をはじめ火災に遭うたびに修復され、豊臣秀吉もまた大仏建立の際、本堂を補修し現在の向拝を附設、寺領70石を安堵した。徳川代々将軍も朱印を加えられた。

現本堂は貞治2年(1363)の修営であり、明治以降荒廃していたが、昭和44年(1969)開創1,000年を記念して解体修理が行われ、丹の色も鮮やかに絢爛と当時の姿をしのばせている。

なお、解体修理の際、創建当時のものと思われる梵字、三鈷、独鈷模様の瓦をはじめ、今昔物語、山槐記等に記載されている泥塔8,000基が出土した。重要文化財の質、量において文字どおり藤原、鎌倉期の宝庫と謂われる所以である。 

第60代醍醐天皇の皇子で、若くして五畿七道を巡り苦修練行、尾張国分寺で出家し、空也と称す。再び諸国を遍歴し、名山を訪ね、錬行を重ねると共に一切経をひもとき、教義の奥義を極める。天暦2年(946)叡山座主延勝より大乗戒を授かり光勝の称号を受けた。森羅万象に生命を感じ、ただ南無阿弥陀仏を称え、今日ある事を喜び、歓喜躍踊しつつ念仏を唱えた。上人は常に市民の中にあって伝道に励んだので、人々は親しみを込めて「市の聖」と呼び慣わした。

上人が鞍馬山に閑居後、常々心の友としてその鳴声を愛した鹿を、定盛なる猟師が射殺したと知り、大変悲しんでその皮と角を請い受け、皮をかわごろもとし、角を杖頭につけて生涯我が身から離さなかったという。定盛も自らの殺生を悔いて上人の弟子となり、瓢をたたき、法曲を唱し、寒い夜もいとわず京中を巡行して衆生の能化につとめた。定盛は上人の遺風を伝えて茶筌を作り、これを世に広め、子孫は有髪の姿に黒衣をまとって踊り、念仏しながら瓢をたたいて市中を徘徊した。これが今六斎念仏として伝わっている。当山の空也踊躍念仏はさらにその源流である。
(六波羅蜜寺WEBサイトより引用)
参拝日:2011年6月25日(土)
第十九番札所 霊麀山 行願寺(革堂)
御 詠 歌
花を見て いまは望みも 革堂の 庭の千草も 盛りなるらん
御本尊
千手観世音菩薩
宗 派
天台宗
開 基
行円上人
開創年
寛弘元(1004)年
所在地
京都市中京区寺町通竹屋町上ル行願寺門前町 075-211-2770
拝観料
境内自由





西国三十三霊場 御朱印・本尊御影・梵字本尊

行願寺は寛弘元年(1004年)、行円が一条小川の一条北辺堂跡に創建したものである。一条北辺堂については、『日本紀略』永祚元年(989年)8月13日条に「一条北辺堂舎倒壊」とあり、行願寺の創建以前から存在したことが裏づけられる。当初の寺地は現在の京都市上京区、京都御苑の西方で、付近に革堂町、革堂仲之町、革堂西町の町名が残る。

行円は仏門に入る前は狩猟を業としていたが、ある時、山で身ごもった雌鹿を射たところ、その腹から子鹿の誕生するのを見、殺生の非を悟って仏門に入ったという。行円はその鹿の皮を常に身につけていたことから、皮聖、皮聖人などと呼ばれ、寺の名も革堂と呼ばれた。行円の生没年は未詳だが、比叡山の横川(よかわ)出身の聖と推定されている。藤原道長の息の藤原顕信は寛弘9年(1012年)、行円のもとで剃髪出家している。

寺は豊臣秀吉による都市計画のため、天正18年(1590年)に寺町荒神口(現・上京区、京都御苑東側)に移転。宝永5年(1708年)の大火の後、寺町荒神口の旧地からやや南に下がった現在地に移転した。
参拝日:2011年6月25日(土)
第十八番札所 紫雲山 頂法寺(六角堂)
御 詠 歌
わが思う 心のうちは 六の角 ただ円かれと 祈るなりけり
御本尊
如意輪観世音菩薩
宗 派
天台系単立
開 基
聖徳太子
開創年
用明天皇2(587)年
所在地
京都市中京区六角通東洞院西入堂之前町 248 075-221-2686
拝観料
境内自由
 URL





西国三十三霊場 御朱印・本尊御影・梵字本尊

聖徳太子が幼い頃、淡路島の岩屋に小さな唐櫃が流れ着き、太子が蓋を開けると中から黄金でできた一寸八分の如意輪観音の像が出てきました。そこで太子は、自分の持仏として大切にしました。そのころ太子は物部守屋と争っていたので、如意輪観音に勝利を祈り、「勝たせていただければ、四天王寺を建立いたします」と誓いを立てました。勝利をおさめた太子は、用明天皇2年(587年)、大阪四天王寺建立のための用材を求めてこの地に来られました。

ある日、泉のかたわらにある多良の木の枝に護持仏をかけて沐浴をされ、終わって仏を手に戻そうとされたが、どういうわけか、枝から離れません。その夜、「お前の守り本尊となってから、すでに7世が過ぎた。これからは、この場所にとどまって衆生の救済に当たりたい」、という仏のお告げを夢で見られました。信仰心篤い太子は、ここにお堂を建てようと決心しました。そこへ一人の老翁がやってきたので、「この辺りに観音のお堂を建てるにふさわしい木はないか」と尋ねました。老翁は「この近くに杉の巨木があります。毎朝紫の雲がたなびく霊木です。あの木を使うとよいでしょう」と言って去りました。老翁に教えられた場所に行くと、一本の杉の木があったので、それを伐ってこの地に六角の御堂を建てて護持仏を安置されたと伝えられます。

寺号は紫雲山頂法寺。「六角さん」の名称で、京の町の人々から親しまれています。
(六角堂WEBサイトより引用)
参拝日:2011年6月25日(土)
番外札所 華頂山 元慶寺
御 詠 歌
待てといわば いともかしこし 花山に しばしと啼かん 鳥の音もがな
御本尊
薬師如来
宗 派
天台宗
開 基
遍照僧正
開創年
元慶元年(877年)
所在地
京都府京都市山科区北花山河原町13 075-571-0002
拝観料
境内自由





西国三十三霊場 御朱印・本尊御影・梵字本尊

元慶寺(がんけいじ)は京都府京都市山科区にある天台宗の寺院。藤原高子の発願により建立。僧正遍昭を開基とし、元慶元年(877年)に建立された。西国三十三箇所霊場の番外札所である。本尊は薬師如来。 寛和2年(986年)、花山天皇がこの寺で藤原兼家、道兼父子の策略により出家させられ、兼家の外孫である懐仁親王(一条天皇)が帝位についた(寛和の変)。花山寺とも呼ばれ、大鏡では花山寺と記述されている。
参拝日:2011年6月25日(土)
第十一番札所 深雪山 上醍醐寺
御 詠 歌
逆縁も もらさで救う 願なれば 准胝堂は たのもしきかな
御本尊
准胝観世音菩薩
宗 派
真言宗醍醐派(総本山)
開 基
聖宝理源大師
開創年
貞観16(874)年
所在地
京都府京都市伏見区醍醐醍醐山1 075-571-0002
拝観料
600円
 URL




西国三十三霊場 御朱印・本尊御影・梵字本尊

醍醐寺は聖宝理源大師が貞観16年(874)に上醍醐山上で地主横尾明神の示現により、醍醐水の霊泉を得、小堂宇を建立して、准胝、如意輪の両観音像を安置したのに始まる。そののち醍醐・朱雀・村上三帝のご信仰がよせられ、延喜7年(907)には醍醐天皇の御願による薬師堂が建立され、五大堂も落成するに至って上醍醐の伽藍が完成した。それに引き続くように下醍醐の地に伽藍の建立が計画され、延長4年(926)に釈迦堂が建立され、ついで天暦5年(951)に五重塔が落成し、下伽藍の完成をみた。

醍醐寺はその後、真言宗小野流の中心寺院として仏教史において重要な地位を占めている。そればかりでなく、政治の中心にあった人達との交渉も深く、例えば藤原一族に代わって大きい権力を持っていた権門源俊房の系統(醍醐源氏)の人が座主として幾代も続いた。そして座主勝覚(俊房の息)の時代に山上・山下共に伽藍がことごとく整備され、永久3年(1115)に三宝院が建立され醍醐寺発展の基礎が確立されたのである。

その後、隆盛を極めた醍醐寺も長い年月の間に幾度かの火災と殊に応仁・文明の大乱の余波とによって下伽藍堂宇はことごとく灰燼に帰してしまったが、幸いにも五重塔だけが難を逃れ、天暦盛時の姿を今に留めている。また上醍醐・准胝堂は"西国第十一番札所"として、五大堂は"五大力さん"信仰の中心として、広く信仰を集めて現在に至っている。

藤原末期から鎌倉時代にかけては、政治的変動から遠ざかり小野法流・教学の充実がはかられた時期となった。そして、まず醍醐寺の歴史を明確にするために、「醍醐雑事記」15巻が慶延によって編集された。また教学研究の成果の一部として現在でも多数の密教絵画、聖教類と共に仏像研究のために描かれた図像抄、白描図像が多く残されている。 南北朝時代には醍醐寺内部において、後醍醐天皇と弘真(文観僧正)、足利尊氏と賢俊の交渉などがあって、二派にわかれて対立した状態が続いた。その当時の政治的緊張を示す資料がいくつか残されている。特に政治の中心と交渉を深く保って、伽藍の復興、寺門の整備に大いに力を尽くしたのは、応永・永享年間のころ座主であった満済准后と桃山時代の義演准后である。

この両者は共に詳細な日記を残していて、その対外的活躍の概略を知ることができるが、それにもましてこの人達が文化財の保存に心を尽くしていたことが、裏書や奥書などによって知られる。また義演准后は豊臣秀吉と関係を持って、その力によって伽藍、三宝院殿舎・庭園の復興をなすと共に、一代の英雄の最後をかざる善美を尽くした醍醐の花見を催させたことによって知られた人である。

江戸時代に入り、修験道中興の祖・聖宝により継承されてきた三宝院に属する修験(山伏)を「当山派」と称する許可を幕府より得、座主高賢の大峯入峰により醍醐の教風がひろまっていった。現在もその法流を汲み花供入峰修行が行われている。

江戸末期の混乱と明治維新以後の変革の波は大きく、仏教各宗派全般の傾向にしたがったように、大小幾多の子院は廃亡し伽藍と中心的子院だけが残った。現在ではそれらの建築の主要なものの多くが、国宝や重要文化財に指定されている。

また一山の宝物・十数万点は霊宝館に収蔵保存され、春秋二期に陳列して一般に公開されている。
(醍醐寺WEBサイトより引用)
参拝日:2011年6月25日(土)
第十番札所 明星山 三室戸寺
御 詠 歌
夜もすがら 月を三室戸 わけゆけば 宇治の川瀬に 立つは白波
御本尊
千手観世音菩薩
宗 派
本山修験宗
開 基
行表和尚
開創年
宝亀元(770)年
所在地
京都府宇治市莵道滋賀谷21 0774-21-2067
拝観料
500円
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西国三十三霊場 御朱印・本尊御影・梵字本尊

西国十番の観音霊場、明星山三室戸寺は、観音応現の霊地であり、光仁天皇勅願の精舎である。

今から約千二百年前、宝亀元年(西暦七七〇年)のこと、光仁天皇が宮中に毎夜金色の霊光がさし込むのを御覧になって、この奇瑞を大変お喜びになり、右少弁犬養に勅して、霊光の源を尋ねさせられた。

犬養は勅をうけ早速、宇治川の支流の志津川の渓流に沿って登って行くと、古樹がうっそうと生い茂る中に、水が青く澄んでいる清淵があり、そこは塵境を離れた幽寂の地で、流水の響きは煩悩の垢を洗う心地を起させたのである。

犬養が清淵に近ずくと、御丈、二丈余り、相好円満、光明赫々とした、千手観世音菩薩が、まぼろしのように、清淵の中から出現されたのを見た。犬養は随喜の涙を押え、掌を合せ厚く頂礼して、清淵に飛び入り、この御仏を抱き上げてみると、さきほどの尊容ではなく、御丈、一尺二寸の二臂の尊像と化していられた。

犬養は都に立ち帰り事の始終を天皇に奏上申し上げると、天皇の叡感殊の外深く、早速宮中に尊像をおむかえになつたが、その後、行表禅師を招き、御室をこの地に移して、この尊像を本尊として安置して御室戸寺と称するよう勅されたのである。

光仁天皇が御室戸寺を御建立以来、本尊の観世音菩薩は無比の尊像として勅封にされていたが、御子桓武天皇は延暦廿四年に尊像を開扉して大供養を営なまれ、白壇木をもって、御自ら最初出現の千手観世音菩薩像を二丈一尺に彫刻され、彼の正身の尊像を胎内に納めて、大悲閣を造立し帝都鎮護の御寺とされた。

これより以来、三十三年毎に勅許、院宣によって開扉大供養を営む慣例となったものである。その後、寛平年間に、三井寺の開祖、智証大師が、当寺に留錫して大いに法幢をかかげ、寺門を中興し、又、花山法皇は離宮を当山に設けられ、観音霊場を巡拝された時には、当寺を第十番の札所に定められたのである。

長和年間には三条天皇が法華三昧堂を、又、白河天皇は常行三昧堂建立され又荘園をも寄進せられた。その後、堀川天皇は、住持、隆明大僧正に深く御帰依になり、伽藍を増修され、又、羅惹院本尊尊星王護摩料所として、武蔵国中茎郷領家職の官符を賜わった。

羅惹院は白河天皇の御願によって三井寺の寺中に建立された一院であった。

隆明大僧正は、初め、三井寺に住して長吏となり、天台宗寺内派を統御された高僧であるが、そこを辞して後、当寺に移りその時共に羅惹院を移転し、伝持の仏像、経典を悉く、ここに納められたのである。隆明大僧正は、御室戸の僧正と称せられてその高徳は普く天下に知られ、法幢は益々盛んになったので、白河法皇の皇子、静証法親王は当寺にお入りになり隆明大僧正を師として修習されたので、御室戸宮と号せられた。

当寺創建以来、光仁、花山、白河三帝の離宮になったため、この頃から、御の字を、三、に替え、三室戸寺と称するようになった。

白河法皇が、熊野参詣の際には、当寺に於て、十七日間の護摩供修行がされたので、これ以来、熊野検校宮の入峰に際しては、十七日間の御修行が佳例となったものである。

以上のように開創以来、歴代天皇の崇敬を集め、寺域も漸次拡張されて、伽藍坊舎が年を追って増加し、輪喚の美を極めたのであるが、後花園天皇の寛正三年十二月十三日、食堂より出火し、貝吹堂、観音堂、彼岸所、西塔院、常行堂、宝蔵と延焼し、大伽藍も悉く烏有に帰してしまつた。その際、桓武天皇御願の白檀木の大像は火災の中に消え失せたが、正身の本尊はじめ常行堂本尊の阿弥陀三尊、隆明大僧正念持の釈迦如来立像等の尊像は猛火を脱したのである。

後土御門天皇の文明十四年、三井寺阿弥陀院の、壱阿、は観音堂再興の勅意を受けて、諸堂の再建にとりかかり、文明十九年七月落慶し本尊開帳の大法会が厳修された。導師は、聖護院宮准三后道興大僧正であり寺門の龍象悉く集り、宮中からは勅使、柳原大納言が参向され、且又、将軍足利義尚も拝賀参列したのであった。

寛正元年炎上以来廃墟の内にあること二十八年に及んだが、ここに再び法幢が高くひるがえることとなったのである。

このようにして、再び寺運隆盛に向ったが、天正元年、織田信長が足利義昭と宇治槇島で兵火を交えた際、当寺の衆徒が将軍義昭に味方したのを恨み、その後、信長が天下の権を掌握した時に、寺領を悉く没収したので、これより寺運衰退に向ったが、寛永十六年、道晃法親王によって復興せられた。

明和年間頃、堂宇が再び廃頽し、忍興和尚の時、改築を計画したが果すことができず、文化十一年になって、法如和尚の力によって漸く本堂の改築が成就したのである。

これが現在の本堂で発願してから落成までに、三十有余年の歳月を費したものである。

以上のように幾多の興亡盛衰を繰返したが、光仁天皇の開創以来千有余年の間、上は皇室より下は広く庶民にいたるまで、私達の悩みの一切を必ずお救い下さる、大慈大悲の観世音菩薩の信仰の中心として、三室戸寺への尊崇は厚く続けられたのである。
(三室戸寺WEBサイトより引用)

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